見出し画像

ヘルツアー・ウィズ・ネームレス

「やあ! アンタ、洗礼名持ってない? 良かったらオレにくれないか?」
 地獄の門の前で俺に声をかけたのは、ニコニコと屈託なく笑う男だった。
「善行ばかりの人生だったのに、洗礼を受けなかったからって地獄行きなんだ! あんまりだろう?」
「他人の洗礼名で天国に行けるのか?」
「できるさ! 死ぬ人間が増えて地獄はてんてこ舞いなんだ。未だにアナログ管理だしね」
 頂戴と言わんばかりに差し出された手は白く綺麗だった。俺の住む地域では見かけないシルバーブロンドも相まって、貴人のようにも思えたが、軽薄な口調がその印象を裏切っていた。
「いいだろう」
「えっ、本当?」
 自分から言い出したくせに、男は目を丸くした。きっと青い目をしているのだろうと思っていたが、瞳は黒々としていて、顔と違い表情が無かった。
「その代わり、渡し賃をくれ。地獄に行かないなら必要無いはずだ」
「いいよ」
 ピン、と弾かれたコインを空中でキャッチする。
「ねえ、パッと見だけど、君天国行きだろ? 洗礼名あげちゃっていいの?」
「必要無い。俺は地獄に行く」
「なぜ?」
「イスカリオテのユダに会わなければならない」
「うわあ、地獄の最下層じゃないか!」
 何が面白いのか、男はケラケラと笑い始める。馴れ馴れしく俺の肩に腕を回し、顔を覗き込んで、「決めた、俺も一緒に行くよ」と言った。
「は?」
「最下層への道を知らないだろ? 教えてあげる」
 振り払おうとしたが、細い腕なのに纏わりつく力は俺よりずっと強かった。そのままそいつに引っ張られて、地獄の門の前に立つ。男が地獄の門を開ける。ブーンという羽虫の音で、鼓膜も肌も震えた。
「渡し賃は一つだけだ! 川を渡れるのは一人だぞ!」
「もう一個あるよ」
 男は懐からコインを出して、またピンと弾いてみせた。
「トロい奴からスっておいて良かった!」
 こんな奴が善人であるはずがない。俺はそう強く確信した。
「それにしても、渡し賃を貰えなかったなんて、君は可哀想だなあ!」


【続く】(800文字)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?