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シナルの魔術師たち

 自動機械通訳を通さない声が、楊の耳朶を打った。 「取っておいてくれたのか」  懐かしさを多分に含んだ声だった。自動通訳ではこの響きを訳すことは出来なかっただろうな、と楊は思った。耳を覆っていたデバイスは、足元で無残に踏みつけられていた。  紘一の視線の先、楊の後ろにある本棚には、ブリタニカが整然と並んでいる。百年ほど前に最後に出版された書籍版だ。紘一が去る時に、この家ごと楊に残したものだった。  紘一は楊の額に銃を突きつけたまま、口を開く。 「わざと、誤訳されるようにしたな

    • ヒュドラを運ぶ

       礼成江の水を飲んでしまったのは、康明を運び終わった時のことだった。  泥の混じった水の匂いが、喉奥から鼻へ抜けていく。岸に掴まり咳き込んでいると、「母さん!」と昭一が、ひしと腕を掴んできた。  岸に上がる。昭一はおんぶ紐を解き、康明を抱きかかえる。先程から泣き声一つ上げない。口元に手を当てると、微かな呼気が手のひらに触れる。しかし、目を閉じて、ぐったりとしている。  急がなくては。まだ弘子と啓子がいる。  北側の岸には、小さな人影がいくつも残されている。他の家族達は、跡取り

      • ケイトが2つになるまで

         長く絶縁していた父の遺品のアンドロイドが、血とリーズの雨に濡れて墓所に立っている。  女の形をしたそいつはこちらを向いて、大きな黒い目を見開いた。片時も離さなかったというその機械を、墓前で壊してやったらさぞ胸のすくことだろうと思っていたのに、俺は立ち竦んだ。女の前にある墓石には、頭の潰れた死体が覆い被さっていた。 「ジャズ、来てくれたんだ」  女がこちらに駆け寄ってくる。喪服の映える石膏の肌に、深く切れ上がった眦。  どこかで見たことがある。 「こんなことになっちゃってごめ

        • 背番号74の叫び

           ミイトキーナの曇り空を、手榴弾が飛んでいく。黄色いから、連合軍のMKⅡを稲尾が投げ返したのだ。どんなに疲れ果てていても、MKⅡが敵陣のど真ん中へ飛んでいくのを見ると、ぱっと心持ちが明るくなる。俺も少しでも力にならねばと思って、塹壕に屈み、九九式のピンに指をかけた。  稲尾がいる方向から爆音が轟いたのは、その時だった。  稲尾は職業野球の選手だった。 「選手は徴兵されないやろう」 「そんなご時勢じゃなくなったんだよ」  野球もお役に立つってことを示さないと、と稲尾は笑った。

        シナルの魔術師たち

          旗片の風

           浅草奥山の楊弓場に、男が軍靴の音高らかに足を踏み入れた。一様に振り返った客も女たちも、男を見るなり阿呆の様に固まった。黒黒とした外套も、星煌めく制帽も、この場にあまりに似つかわしくなかったからだ。 「ここに、決して矢に当たらない矢取り女がいると聞いた」  朗々とした声に、店主が慌てて飛び出して、頭を下げて答える。 「へえ、確かに」 「その女に相手してもらいたい」  もちろんでございます、と言おうとした店主を「お待ち」と、凛とした声が遮った。  矢場に並んだ的の前に、艶やかな

          旗片の風

          蒼天を殺す

          「白沢(はくたく)様を呼びましょう」  昭(しょう)が言った。子を喪ってから初めて口にした言葉だった。  張(ちょう)は弟達に小声で「はくたくってのは、一体誰だろう?」と尋ねたが、二人とも首を横に振る。村で学があるのは昭だけだった。  建寧三年、冀州(きしゅう)の農民は貧困に喘いでいた。疫病が流行し、年寄りや子供は皆死んだ。時の帝が幼いことをいいことに、官吏達は肥え太る日々だという。 「白沢様は神獣よ。病の治し方を教えてくれるんですって。名君にしか姿を現さないの」 「名君など

          蒼天を殺す

          鍵のバルカン

           トラックの下を歩いて国境を超えるよりも、ホロの中で息を止めている方が、僕にとってずっと楽なことだった。  小さい頃、父が足を怪我して働けなくなった。食っていくために、僕はパキスタンに密入国してお菓子や煙草を運ぶ仕事を始めた。  大人から品物を受け取って、パキスタンに入国するトラックの泥除けの下に潜り込み、歩いて密入国する。銃を持った大人達は僕たちに気付いてはいるが、子供だから見逃してくれる。入国したら店に行き、品物を渡して代金を貰う。兄達の稼ぎと合わせても、その日食べるのに

          鍵のバルカン

          恐竜の恋人

           6000万年の時を経て、1匹のケツァルコアトルスが目覚めた。  彼女は探検が好きだった。巨大な翼で空を飛び、知らない土地に降り立って、四つ足で歩き回り、見たことのない植物や生き物を味わった。強そうな恐竜がやってきても、彼女はすぐに空に逃げることが出来た。空において彼女は無敵だった。  彼女はある日、南へ南へ飛んで行き、やがて真っ白な大地に降り立った。そこには生き物はおろか、草一本無かった。  なんだ、つまんない。一休みしたら、彼女はさっさと帰ることにした。  彼女は暖かい

          恐竜の恋人

          毒娘ビーチェ

           吐息だけで人を殺す女を探してほしい。そんな依頼だった。そいつのせいで俺は今、路地裏で背中をグッサリやられている。   「捕らえるのはこちらがやる。お前がやることは、『捜す』『見つけたら連絡する』。それだけだ。それ以外は何もするな」  『博士』と名乗った男はそれだけ言って通話を切った。指定されたロッカーの中にあったのは写真だけで、予想と違い平凡な女が写っていた。しかし、『俺』に依頼してきた時点で、何かワケありってことだけは確かだ。  俺は女のことを調べた。綿密に、入念に、それ

          毒娘ビーチェ

          さよならだけを人生にしたい!

           故・高杉晋作の愛妾、おうのは湯呑を叩きつけて叫んだ。 「あのマニピュラティブ糞野郎共!」  恨みの籠った叫びに笑ったのは、故・坂本龍馬の妻、お龍である。現在は西山ツルであるが、親しいものは彼女をお龍と呼ぶ。 「いっとう弱っていたんです! 本当は尼になんて!」 「そういう時ってあるよねー」  十数年前、高杉は亡くなった。24歳だったおうのは、山縣有朋や伊藤博文に強く言われて出家した。彼らは高杉の愛妾に男ができないよう、髪を剃らせたのである。  暫く悲しみにくれ、菩提を弔い過ご

          さよならだけを人生にしたい!

          ヘルツアー・ウィズ・ネームレス

          「やあ! アンタ、洗礼名持ってない? 良かったらオレにくれないか?」  地獄の門の前で俺に声をかけたのは、ニコニコと屈託なく笑う男だった。 「善行ばかりの人生だったのに、洗礼を受けなかったからって地獄行きなんだ! あんまりだろう?」 「他人の洗礼名で天国に行けるのか?」 「できるさ! 死ぬ人間が増えて地獄はてんてこ舞いなんだ。未だにアナログ管理だしね」  頂戴と言わんばかりに差し出された手は白く綺麗だった。俺の住む地域では見かけないシルバーブロンドも相まって、貴人のようにも思

          ヘルツアー・ウィズ・ネームレス

          此節百物語蒐集~女、唇を盗られる事~

          「人になぜ唇があるのか知っていますか?」  女が唐突に言った。  僕は少し考えるふりをして、「分からない、キスをするため?」と答える。薄暗いビルの一室、僕たちが座る椅子とテーブル以外何もない部屋に、思った以上に声が響いた。 「一説では人間が火を扱うようになったから、と言われています。熱いものを口に運び、火傷しても良いように、再生しやすい外皮に変化した、とする説です。また、唇が出来たことにより、発音できる音の領域が広くなり、人のコミュニケーションに大きく影響した、とも言われます

          此節百物語蒐集~女、唇を盗られる事~