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此節百物語蒐集~女、唇を盗られる事~

「人になぜ唇があるのか知っていますか?」
 女が唐突に言った。
 僕は少し考えるふりをして、「分からない、キスをするため?」と答える。薄暗いビルの一室、僕たちが座る椅子とテーブル以外何もない部屋に、思った以上に声が響いた。
「一説では人間が火を扱うようになったから、と言われています。熱いものを口に運び、火傷しても良いように、再生しやすい外皮に変化した、とする説です。また、唇が出来たことにより、発音できる音の領域が広くなり、人のコミュニケーションに大きく影響した、とも言われます」
 マスクを着けているからか、女の声は時々妙にくぐもった。なぜこんな話が始まったのか、僕には分からなかった。藁にも縋る思いで、この百物語を収集するという女の元に来たのにと、テーブルの下で手を握りしめる。そんな僕の思いを見透かしたように女が言う。
「残念ですが、あなたのお話を聞くことは出来ません」
「どうして」
「あなたのお話は、まだ完結していないからです」
「完結したら困るんですよ」
「ええ、知っています。しかし、百物語とは、既に終わった怪談を語るものです」
 ガックリと僕は肩を落とす。どうしようも無くなって、語ることによって厄落としをすることができるという、この女の所に来たというのに。
「ですが、力になることはできるかもしれません。あなたはどこを奪われるのですか?」
 3日後に、僕は心臓を失ってしまう。なぜそのことを知っているのか。もしかして解決策を知っているのかと、期待を込めて女を見る。
「イレギュラーですが、今は私が語りましょう。私の物語はもう完結していますから」
 おもむろに、女がマスクを外した。その顔には唇が無かった。
「そもそも私が百物語を集めているのは、あなたに憑りつくその怪奇によるものなのです」
 協力しましょう、と女が言う。やっぱりその声からは発音が所々抜けている。
「その代わり、あなたには私の声になってほしいのです」

【続く】(794文字)

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