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シナルの魔術師たち
自動機械通訳を通さない声が、楊の耳朶を打った。
「取っておいてくれたのか」
懐かしさを多分に含んだ声だった。自動通訳ではこの響きを訳すことは出来なかっただろうな、と楊は思った。耳を覆っていたデバイスは、足元で無残に踏みつけられていた。
紘一の視線の先、楊の後ろにある本棚には、ブリタニカが整然と並んでいる。百年ほど前に最後に出版された書籍版だ。紘一が去る時に、この家ごと楊に残したものだった。
紘一は楊の額に銃を突きつけたまま、口を開く。
「わざと、誤訳されるようにしたな」
「……ロマンシュ語のことか? それともスワヒリ語か?」
ガラス戸を隔てた庭から、鈴虫の声が薄く聞こえ始める。暗くなっていく部屋の空気を震わすものは、その音と、二人の緊張だけ。
「もう流石に見過ごせない。ロゼッタも、きっと望まなかっただろう」
楊が息を呑む。
「まさか、お前……」
肩を大きく上下させて、楊は紘一を見据えた。
「紘一、考え直せ。辞書が、自動通訳が無くては、人間はまともに生きていけなくなる。一番困窮するのは貧困層だ。許されるわけがない」
紘一の指が震える。分かっている、そんなこと。
リィン……。
鈴虫が羽を震わせて鳴いている。
人が己を何と呼ぶのかも知らずに。
リィン、リィン、リィン……。
……でもかつて、この虫は確かにマツムシと呼ばれていたはずだったのだ。
紘一の手に力が戻る。楊は絶望して叫んだ。
「我々を、人間を、また禽獣に戻すつもりか!?」
紘一は小さく笑った。
「比喩か。久しぶりに聞いたな」
引き金を引く。血がブリタニカの背表紙を汚した。
倒れた楊の口を開け、ペンチで前歯を抜く。これで楊は、無声唇歯摩擦音を、もう二度と発することはできなくなった。
ガラス戸を開けて、庭に出た。鈴虫の声がいっそう大きくなる。
目当てのものは手に入った。北欧行きのチケットはグローブボックスに入れてある。
辞書を、燃やさなくては。
【続く】
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