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ポメラ日記64日目 ものを書くためにSNSをやめた話

 最近、ものを書くためにあるものをやめた。SNS(Twitter・X)だ。

 Twitter(X)は、学生の頃から10年くらい使い続けたサービスで、これが縁になって文学関係のひとのつぶやきを知ることができたり、おすすめの本や文芸イベントに触れられる機会もあって、重宝していた。

 使い始めた頃は、Twitterが世に出回りはじめたときで、まだ牧歌的な雰囲気が残っていたと思う。見ず知らずのひとと手軽にテキストで会話できることは、刺激的だった。

 本や小説を好きな人にリアルで会う確率は少ない。会ったとしても、お互いの好きなジャンルがべつに被っていなかったり、小説を書いていることを大っぴらに言うのは恥ずかしいためか、書いていても言わないケースの方が多い。

 その点、SNSでは匿名のまま同じ趣味の人と関われるという意味で、役に立っていたツールだったと思う。
 
 学生のときは時間なら余るほどあったから、手軽に日常の隙間を埋めるにはちょうどよかった。

 ただ僕はもう二十代の頃のようにそんなに若くはないし、いくらでも時間を注ぎ込めるわけではないことに薄々勘づいていた。

 タイムラインを眺めていても、あまり楽しいものではなくなった。昔よりも広告や営業目的のツイートが増えたし、僕自身も仕事でライティングやブログを書いているから、何となく手口は分かってしまう。

 はじめは、ほんとうに「何でも」──日常でどこに行ったか、何を食べたか、この本を読んでどう思ったか、いま考えていること、悩んでいることは何か──書けたのだけれど、年を追うごとに書ける範囲は狭まっていった。

 本当は悩んでいるけれど、「ネガティブなことを呟くと不快にさせてしまうからやめておこう」とか、「誰かに言うほどのことではないから、胸のうちに留めておこう」とか、そうやって言う前に判断する場面が増えた。

 この「言う前に判断する」がけっこうストレスで、SNSは使えば使うほど、もやもやしたものが溜まっていくなと思っていた。

 それだったらいっそのこと、SNS(Twitter、X)を止めてしまった方がものを書くためにはいい気がした。

 文学ブログ「もの書き暮らし」やnoteの「ポメラ日記」があるから、読者のための入り口は多い方がいい、と思ってTwitterは残していたのだけれど、やっぱりデメリットの方が上回ると感じた。ここら辺が潮時だった。

 SNSは「ほどほどに」というけれど、SNSにちょうどいい距離感なんてない。使っている時点で多かれ少なかれ、影響を受けているし、時間も取られる。見たくないコメントやリプライも見てしまう。

 僕がほんとうに書きたいのは小説やブログで、140字ではとても収まりそうもなかった。

 誰かに共感してもらったり、「いいね」を押してもらうために文章を書くわけじゃない。一番引っ掛かっていたところはそこだと思う。

 スクリーンを眺めて映っているのは、他人の人生であって、僕の人生じゃない。
 
 僕は自分の時間を取り戻したかった。だから、SNSはやめることにした。

 幸い、noteにもつぶやける機能があって、ちょこっと言いたいことがあるときは、noteに集約すればいいやと思っている。

 無差別に誰かのつぶやきが降ってくるSNSよりも、見るか見ないかをタップで選べるnoteの方が、僕にはちょうどいい具合だった。

 あと、文芸周りのひとだけではなく、「何かをつくる」クリエイターがゆるく集まっているプラットフォームはたぶん「note」ぐらいだと思うので、創作物を通してちょっとつながれるくらいが合っていたのかもしれない。

 何かを作っていないと、誰かと繋がることはできない。それぐらいの緊張感はあった方がいい。

 SNSはやめてみると気分がよかった。さっぱりとした。アカウントは昨日、削除した。

 作家の村上春樹さんは、「センテンス一つや二つで説得する社会には興味がない」とインタビューで語られていたことがある。

 結局は、この言葉に尽きると思う。時間が経てば、調子のいい言葉は消えていく。そのときはよくても後にはみんな忘れる。そんな言葉ばかりがSNSではもてはやされる。

 Twitterで呟いたことが何十年も先で残っているかというと、たぶん誰の記憶にも残っていない。一年前の今日に、誰が何をつぶやいていたか、すぐに思い出せる人がいるだろうか?

 でも僕は、この記事を書いているときに村上さんの言葉を思い出していた。
 
 僕の好きな作家の中村文則さんも、SNSはやらないと公言されていたと思う。最新の単行本『列』では、お互いに比べ合う現代人の悩みを「列」というシチュエーションから浮き彫りにした。

 2012年に芥川賞を受賞された田中慎弥さんは、『孤独論 逃げよ、生きよ』という本のなかで、パソコンは使わず、携帯電話も持たず、原稿用紙に向かってひたすら毎日書くと話されていた。

 それぐらいのストイックさがなければ、現代でまともな文章は書けないんじゃないかと思う。

 時代が時代だし、いつ野垂れ死んでもおかしくないし、机に座って落ち着いてものが書ける日がいつまでもあるとは思わない。

 書けるものは書ける内に書いておいた方がいい。それが残るかどうかはべつに分からなくてもいい。それでも書いたのだ、という事実は自分の胸の内には残るだろう。

 前述したレイモンド·カーヴァーは、あるエッセイの中でこんなことを書いています。
「『時間があればもっと良いものが書けたはずなんだけどね』、ある友人の物書きがそう言うのを耳にして、私は本当に度肝を抜かれてしまった。今だってそのときのことを思い出すと愕然としてしまう。(中略)もしその語られた物語が、力の及ぶ限りにおいて最良のものでないとしたら、どうして小説なんて書くのだろう? 結局のところ、ベストを尽くしたという満足感、精一杯働いたというあかし、我々が墓の中まで持って行けるのはそれだけである。私はその友人に向かってそう言いたかった。悪いことは言わないから別の仕事を見つけた方がいいよと。同じ生活のために金を稼ぐにしても、世の中にはもっと簡単で、おそらくはもっと正直な仕事があるはずだ。さもなければ君の能力と才能を絞りきってものを書け。そして弁明したり、自己正当化したりするのはよせ。不満を言うな。言い訳をするな」(拙訳『書くことについて』)

『職業としての小説家』村上春樹著 新潮文庫『時間を味方につける──長編小説を書くこと』p.172-173より引用

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