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3歳児の癇癪(かんしゃく)と他人の言葉

子どもの癇癪(かんしゃく)にヘトヘトになりながら、
いつもより遅く保育園に送り届けた帰り道。

後ろが軽くなった自転車をこぎながら、
涙がダラダラ流れて、ひどくブサイクな状態になった。

でも、もうそんなのどうでもいい。
それくらい投げやりな気持ちになり、
気力がすっかりなくなっていた。

さて、仕事だ!・・・と切り替えようとしても、
幸か不幸か、
その日は、デスクワークばかりの日。

こんな日は、テレビやラジオ、舞台などの
本番がある方が良いのかもしれない。
自然に本番の時間までを逆算して、
ベストコンディションに持っていく習慣ができている。

特別な何かをして、そういうコンディションに持っていくわけでは無い。
でも、なぜか一気に切り替わる。

その日はデスクワークの日。

はかどらない。
というより、何も手につかない。

やらなきゃいけないことは、すごく溜まっている。
でも、絶対に今やらないと人に迷惑がかかるような仕事ではない。
締め切りは迫っているけれど、
子供を寝かしつけたあと、夜中に起き出して作業することもできる。

ダメだ。
気持ちの切り替えができそうにない。

座右の銘は、
「急がば回れ。」

よし!予定変更!

唯一のママ友にSOS。

ほんの短い時間、
話して、泣いて、笑って、
切り替えた。

子もそれぞれ、親もそれぞれ。
子育てや育児は、
何が良いのか悪いのか、
きっと、良し悪しも正解もない。

ただ「今」が通り過ぎていく。

子どもも、仕事も、大事だけど、
自分のための予定変更。

自分第一じゃなくても、自分を優先しよう。


…というようなことを、
ほんの愚痴のつもりでリアルな友人限定公開でFBに書いた。

すると、
投稿にコメントをくれたり、
直接メッセージをくれたり、
電話してくれたりした。

その言葉の数々は、さすがリアルな友人だと思った。
救いになった。
わたしにはなんていい友達がいるんだ!

・・・・と思えるものがほとんどだったが、
ごく一部、なんだか心にささくれができたかのように
チクっと痛みを感じるものがあった。

でも、どれも好意的な言葉だ。
私のことを思って、少しでも楽になれるように
励まそうとしてくれている言葉の数々。

なのに、チクっと感じるものがあるのは何故だろう?

救いになった言葉と何が違うのだろう?

「言葉をくれた人たちが本当に言いたかったこと」を考えていた。

つめたい言い方をしてしまうと、
「その人たちがなぜ私に言葉をくれたのか。」
その目的や意図を探っていたともいえるのかもしれない。

嬉しかった言葉は、

「いろいろあるよね」
「癇癪は親も子も心底ヘトヘトになるよね。」
「子育てのイロイロは避けて通れないよね」
「連れておいで子どもとあそんどく〜」
「よくやってるよ」
「何も心配いらないよ」
「もっと甘えていいよ」

今のままの私を認めてくれようとしたり、
共感や理解を示してくれるもの。

これらの言葉から受け取った目的や意図は、
「なにがあっても私はあなたの味方だよ。」ということ。

一方で、心にチクっと痛みを感じた言葉は、

「原因は〇〇じゃないかな」
「こうしてみれば?」

というもの。

原因を追求しようとしてくれたり、アドバイスをくれるもの。

いずれも私によかれとの思いから発せられた言葉たち。

それなのに、原因を突き止めて解決してくれようとしたり、
アドバイスをしてくれようとしたりするものに

チクっとするのはなぜだろう。

チクっとする言葉をぼーっと眺めながら、
その人と私との関係性について考えていた。

ああ、この人はこの言葉で私との関係性を測っている。
言葉によっって私との関係をコントロールしようとしている。
これはもしや、マウンティングというものなのかもしれない。

そう思うと、ささくれが抜けた。

なんだ。
自分に原因があるから改善しなきゃいけないと言われているような、
私は何かしなきゃいけないことができていないと言われているような、
そんな風に受け取っていたけれど、それは違う。

そう受け取ると、この人の思うツボだ。

私は、これまでにもそうやって
他人の思うツボに入ってしまい痛い思いをしたこともある。

なーんだ。

私は私のままでいい。
その人のおもうツボには入らない。

たとえ、癇癪の原因がその人の言う通りだったとしても、
アドバイスが的確だったとしても、
わたしは今、自分の心を守ることを優先しよう。

それが、結局のところ、
子どものためでもあると今の私には思えるからだ。

本当に伝えたいことは言葉だけではわからないこともある。

本当に伝えたいことを「伝える」力だけではなく、
相手が本当に伝えたいことを「受け取る力」をつけていこう。

「本当に伝えたいこと」を
伝える力、受け取る力は、自分を守る力ともなる。

書いてみたこと、発信してみたこと、 それが少しでもどこかで誰かの「なにか」になるならばありがたい限りです。