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(23) 他者との共存 -寛容-

”人との関係が上手くいきました”という報告はそうそうない。それ程までに私たちの日常は、人との関係が苦となり悩みとなっているのである。そういった意味では、一人は気が楽だし気兼ねの必要はない。自分ひとりの尺度で思うように決められる。何よりもトラブルが起きない。このことは大きな安心の材料なのであろう。

しかし、一人では居られない様々な現実がある。幼稚園・保育園から学校へと、ほとんど三歳から集団の中に放り込まれる。学校を卒業してからも決して一人っきりということは例外を除いてはない。考えても見れば私たちは人生のほとんどを集団の中で過ごしている。そのことは”幸”でもあり”不幸”でもあるのである。

クライアントの方々の多くは”人間関係”が苦手であると訴えられる。中には苦手ぐらいではなく、”恐怖だ”と訴えられることが多い。今までの人生の中で、人との関係が上手くいかず悲しみ、傷つき、恨み、散々な思いであったのであろうことが想像できる。

十年程前だろうか、個人所有の山一つ、スギやヒノキを伐採してブナ・クヌギ・コナラ・ヤマザクラ・カエデなど雑木に植え替えて自然林に戻そう、という運動に参加した。苗を買うためのカンパと植樹作業である。山仕事は机上の仕事よりはるかに楽しい。その折、山の所有者の方から知らなかった話をお聞きし驚いた。スギ・ヒノキの需要が高かった頃、林業家たちは全国、山々の雑木を伐採してスギ・ヒノキに植え替えていった。お金になるからだ。まあ、わからない訳ではないが、山のバランスは崩れ、山は自然体でなくなっていく。そんな貴重なスギ・ヒノキだからか、苗を植えた後、育ちの悪い若木は間引かれて抜かれる。これもわからない訳ではないが、何だか悲しい。驚いたのは、育ち過ぎの大きな若木も間引かれるという。周りの若木たちに太陽の光を当てなくするから、ということらしい。これには衝撃を受けた。”同等同質”でないと具合が悪いという訳だ。

小学校でもこれと同じようなことが起きる。子供たちはチビッ子のうち、どのチビッ子も”同等同質”で同じような顔をして、同じような動きをして、身体としての成長も同じぐらいで、誰が誰だかわからない。時に参観日に後ろから我が子を探すが、どの子が我が子かわからないことが起きたりもする。こんな”同等同質”が当たり前の時期に、一人だけ並外れて大きな身体だったりしたら目立つし、なかなか周囲から普通の反応は貰えない。さすがに野菜や樹木のように間引かれるようなことはないのだが、他とは違う目で見られることになる。個性的であることが具合が悪いと言われてしまう。”出る杭は打たれる”のことわざがそれである。

誰しも安心していたいのだろう。集団が普通にひとまとまりを為していて、独自に動いたりせず、みんなの顔色を見ながら一緒に一緒に、が安心なんだろうと思う。”遅れ””行き過ぎ”も集団のまとまりから言えば、不安定を生むらしい。そんなもの幻想でしかないのに・・・。集団の中では個性は認められ難い。悲しく残念なことである。

人の集団の中でお互いを認め合い、あなたを活かしそして私が活かされる。その”働き”が止まると集団は人に苦しみを与えることになる。何かの都合で認められず、自身の居場所が見当たらず強い不安に駆られる。こんな場合、人は退却するか攻撃を始める。退却は、集団が恐くて自分の殻の中に隠れる。攻撃は、何も暴力をふるうとは限らず、人を信じない~嫌うまで様々であったりする。”人と共に生きる”は並大抵ではない。

妊娠したお母さんにとって、お腹の中の胎児は遺伝子的には「異物」であり自己ではない。その「非自己」を胎内に抱えながら、胎児を拒絶しない。私たち人間には免疫機能が備わっているはずだから、お母さんにとって「非自己」である胎児は、拒絶反応を当然起こす「異物」のはずである。しかし、拒絶どころかその胎児を慈しみ愛し、無事な出産を望む。それは免疫の働きの中にトレランス”寛容”という機能があるからだと聞く。無理をしなくとも、免疫機能の中にこの”寛容”が元々組み込まれているから、私たち人間は安心して出産できるのだ。

これでわかるように、「他者との共生」を解くカギは”寛容”である。確かに”寛容”であればむやみに人を責めないだろうし、思いやり許して受け入れることも出来る。しかし、”寛容”などというそんな”力”はなかなか意識して持てるものではないから困る。どうしたら良いものかと考える。・・・ちょっと待てよ・・・”ゆとり”だとか”余裕”がある時、私たちはセコセコと反応しない。逆にこちらに”ゆとり”だとか”余裕”がない時、相手に腹を立てたり、雑な反応をしてしまわないだろうか?そう、人は余裕のある時は”寛容”になれるが、余裕を失くすと”不寛容”になると相場は決まっているようだ。私たちは生まれながらにして、その免疫機能としてトレランス”寛容”を持っているのだ。余裕さえあればそれは働くはずである。だとすると、心配することはない。”余裕”をどのように作れば良いのか?だけを考えたら良いのだ。

”余裕”
①自分の思考の物差しをまずは一旦棚上げする
②スケジュールを詰め過ぎないで、自分の好きなことをする時間を作る
③「まぁ、いいか」とつぶやく
④ありのままの自分を信じ、認め、受け入れる
⑤何もかも、「どうしたら楽しめるか」を工夫する
⑥持ち分のエネルギーを使い過ぎない、枯渇させない。減ればチャージする
⑦私が尊重されたいのだから、まず人を尊重する

まず間違いなく、この七つの工夫は”余裕”を生む。
愚考の日々を過ごす私の教訓七つである。


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