見出し画像

(72) 津哉子 ー 涅槃

中央線で中野より西へ行くのは、津哉子にとって久しぶりのことである。それと言うのも、短大時代からの親友である山岸里子からの誘いで、二人の恩師である田村三海先生の個展へ出掛けることになったからであった。三海先生の中国哲学の講座は、何しろユニークであった。教養科目であるため選択してもしなくても良いのに、哲学という難解な講座であるにも関わらず、毎年履修者が多くて教室から溢れんばかりであった。

「私は毎年、最初の授業のために、大変な苦労を強いられているわけです。今年も全神経、全エネルギーをこの日の為に注ぎましたので、次回からの授業がどうなるのか責任が持てません」
「枝ですが、桜のつぼみを持って参りました。皆さん四月も半ば過ぎだというのに、桜のつぼみとは不思議だと思われたでしょう。実は私の家の隣の金子さんにご無理をいいまして、毎年つぼみのうちに一枝いただくんです。
ですから、こうして授業が出来ますのも隣の金子さんのおかげでして・・・」
教室では、毎年ここでドッと笑いが起こる。履修もしていないのに、初回この授業に四年間通い続ける学生が大勢いるが、津哉子もその一人であった。
その授業は、こう続く。
「三月半ば頃からひと月間、この小枝をつぼみのままどう保存するか大きな問題です。私の哲学人生の中で最大の、そして一番難解な課題でしたが、意外なところに答えはあるものなのです。私は、駅前の『花正』さんという花屋さんに相談したのです。花専門の冷蔵庫ですよ。気がつきませんでした。皆さんも、問題は一人で抱え込まないで、人に相談されることですよ」

吉祥寺を過ぎる頃、車窓からは桜の花があちらこちらに見えはじめた。こうして電車の中から見る桜もいいもんだと、津哉子は思った。津哉子は、里子との待ち合わせの高尾まで、車窓からの桜を眺めながら、ただぼんやり過ごした。高尾で下車した津哉子は、改札を出ると里子の車を探した。ロータリーの奥でヘッドライトをチカッチカッとさせる里子らしき車に近づくと、
「津哉子、久しぶりね。去年の暮れから会ってなかったよね」
「そうね。いつも電話で話してるからそんな気しないけど。だけど、どうして先生の個展、相模湖なの?都内でやったらもっとみんな来てくれるだろうにね」
津哉子はそういいながら、里子の車へ乗り込んだ。
「里子、個展の会場かここから遠い?」
「駅としては次の駅だから遠くないよ。そうね、車でニ十分ってとこかな」
里子はサングラスを掛けると、車を急発進させた。相当運転には慣れているのだろう、シフトレバーをカチカチと操作した。
「津哉子、覚えてる?三海先生の最初の授業でさ、桜の枝をわざわざ用意してまで私たちに語りたかったこと。あの頃津哉子は、先生のおっしゃる〈何故、桜の花は美しいか-〉の答えを、美しいと思う心が美しいからだ、といったことがあったよね?」
「どうしたの?里子、突然深刻な表情して・・・」
「昨日、津哉子との電話を切ってから、ふとその事思い出して・・・。あの頃、私も津哉子のいうように思ったわ。三海先生は問い掛けたままで、答えは出されなかったわよね。本当にそれって、私たちが考えてた簡単なものだったんだろうか、って・・・」
里子は、その後何かを言いたげな口調であったが、それ以上言わないまま車を走らせた。津哉子にとっても、そのしばらくの沈黙の時間が何か大切な時のように思われた。

会場は、相模湖畔の旧有島家の庭ということであった。屋外で書の個展とは、三海先生らしいと津哉子は思ったが、何か特別な意図があるのだろう、とも思った。作品は二百六十六作品にも及ぶと聞いていた。庭の東から順路が示されてあり、受付のすぐ横から作品が各々木に吊るされてあった。津哉子は、なるほどと思った。第一の作品と第二の作品は、最初の銀杏の木に吊るされてあった。〈観〉・〈自〉とあるその作品を見た途端に津哉子は、まるで背筋に電流でも走る感覚に襲われた。涙も流れた。『般若心経』であろうことが、津哉子には容易にわかった。順路の途中、来客たちもこの作品群が『般若心経』であることに気づいたのか、あちらこちらでひそひそと話す声が聞かれた。〈涅〉・〈槃〉の作品は、当然、池の傍にある桜の木に吊るされてあった。津哉子は、思わず声が出そうになるのを必死で堪えながら、里子の姿を探した。里子は、その桜から少し離れた所に、しゃがみ込んでいた。
「解けたわよね、里子」
津哉子は、どういうわけか息が切れんばかりであった。里子にしても、しゃがみ込む程のショックがあったのだろう。
「津哉子、言わないで・・・それ以上。言葉にしないで欲しい。これで・・・これでいいのよ」
「そうね」
津哉子は、里子の意図に同意したという笑顔をして、里子の手を力いっぱい握った。会場のどこにも三海先生の姿はなかった。

会場を出ると、里子は、
「津哉子、甲府あたりまでドライブしてみない?」
「そうね、このまま帰る気にもなれないわ」
「私、哲学科を出て本当に良かったと思ってるの」
里子は、ひと言ひと言噛みしめながらそう言った。
「そうね、私もよ。三海先生の授業やゼミに参加できたことを、誇りに思っているわ。何かさ、卒業して五年にもなるけど、ひとつひとつ教わったこと、はっきりと思い出せるのよね」
津哉子は、涙声でそう言った。里子は運転しながら、優しく左手を津哉子のそれに重ねた。
「私たち、ずっと友達でいられそうね」
「三海先生の弟子同士だもんね」
中央高速は、行楽日和とあって車の流れはそれほどスムースではなかった。山の中腹あたりが、桜なのだろう、帯状にピンク色に染められていた。
「次のサービスエリアでお茶でも飲む?」
「里子疲れたでしょ。休もうよ」
窓際の席に腰を下ろした二人は、運ばれたコーヒーに手もつけないで、満開の桜に目を奪われていた。
「里子、先生ってやっぱり個展はこの季節と決めていたんだよね」
「今、私もそのこと考えてたの。夏でも秋でもダメだわね。葉桜ってのもね・・・」

津哉子は、久しぶりに駅から歩いてみようと思った。駅前から環七通りまでのブロックの舗道にも、不自然ではあるが街路樹が植えてある。プラタナスの若葉が、透き通るような薄い色で、老木に不似合いであった。陽が随分と長くなったのか、夜の六時を過ぎているというのに空はまだ明るく、西の空が夕陽に染まろうとしていた。春のやわらかな風が、大きなプラタナスの葉を揺らした。津哉子は、舗道の敷石に目をやると、ブロックからはみ出ないように真っすぐに歩き始めた。バッグを肩に掛けると、両手を左右いっぱいに広げてバランスをとるような格好をした。「いち、にい、さん」と、大きな声で号令をかけてみた。春の息遣いを感じることもあってか、津哉子は内から湧き上がってくるエネルギーを感じ取っていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?