妹の死について作文に書かされた日。

タイトルの通り、重い話題になる。
けれど、その作文を書かされた日から、いつかその続きの作文を書かなければならないと思ってきた。
書かなければならない、書きたい、けれど、書き出せないまま年月だけが過ぎた。

結論を言えば、その作文を書かせた小学校の担任の先生のことを、私は許していない。
許すことができない。きっと一生。
だから、続きの作文を書いて、自分の心を整理してしまいたかった。
けれど、私の中に残る罪悪感もまた、それをすることを押しとどめてきた。
子供時代に置き去りにしてきた虚ろな目をした自分自身の姿と、向き合わなければならないと感じている今、真っ先にこの内容から書いてしまおうと思った。
正直、こうして文章を書いている今も、辛い。けれども。
私の罪と、小学校の担任の罪を、心の整理のためにも、このnoteという場を借りて書いてしまいたい。

私の家は、複雑だ。
私は実母から虐待を受け、現在は絶縁している。
絶縁と言っても、こちらから一方的に警察や役所の力を借りて、住民基本台帳の閲覧制限という手段を取って生活しているに過ぎない。
日本という国の文化や歴史が好きな趣味を持っているが、日本に根強い家族神話については、早く払拭されることを願ってやまない。

そんな私には、妹がいた。
実母が再婚した、私にとっては血の繋がらない父との間に生まれた子供だ。
血の繋がらない父とはいっても、私は実の父を知らないので、私にとっては血の繋がらない父こそが本物の父であったが、しかし本人たち及び親族たちにとっては複雑なことであり、その複雑さが、私にとってもなかなか折り合えない複雑な立場を生んでいた。
母は、妹が生まれる前から私を虐待していたし、父はそれを知っていたのかどうかわからない。教育が厳しすぎるのではないか、と忠言していた記憶はあるが、母はその手の人間がよく口にする「殴っている私の手だって痛いの!心も痛いの!この子が出来ない子だから、心を鬼にしてやっているの!」と涙ながらに訴え、父はそう言われれば何も言えず、私はそれを白々しく見ている褪めた子供だった。

そんな両親の間に、子供が出来た。
母は体が弱く、つわりも酷そうで、その間は私に物理的暴力という形の虐待をする体力がなかったのか、ひたすらに暴言を吐くという形の虐待だけになった。
私はそれでも安心していた。心は痛むが、体が痛むことはない。妹か弟ができるというのは、悪いことではないと思っていた。
小学2年の時に、妹が生まれた。
生まれた赤ん坊は、小さく赤くふにゃふにゃしていて、私にはこんな弱そうな生き物を、この乱暴な母が育てることができるのかと、疑問に思った。
生まれた後、4歳になる年まで私を育てたのは、祖父母であって、母ではなかった。

しかし、産後の肥立ちが悪く、祖母が手伝いにきたこともあって、祖母、父、私、母と、何とか弱弱しい生き物は少しずつ、町で見かけるような人間の赤ん坊になっていき、私はそれを興味深く眺めていた。
実際、妹のことは可愛かったのだ。

妹が少しずつ成長し、母の産後の肥立ちも回復していく内に、虐待が再開した。
暴言、暴力、妹が大声や物音に怯えて泣き出したり、おむつやミルクの時間以外は、普通に再開した。
私は、この母の虐待が、いずれ妹にも及ぶのではないかと、恐怖していた。
そうしたら、私が守ってやらなくてはならないと思っていた。

そんな生活は、たった半年で終わりを迎えた。

母が私に対して暴言や暴力を奮っている間に、妹のミルクの時間が来ていたはずだったが、妹が泣く気配がなかった。

1時間経っても泣き出す気配がなく、母はそこで様子を見に行った。
妹はベッドから転落し、両親の布団の上にうつぶせに落ちていて、既に心肺停止状態になっていた。
母は半狂乱で救急に電話し、人工呼吸などを試み、私は父の会社に電話し、父を呼び出してもらい、妹が大変なことになったから帰ってきて欲しいと告げた。

救急車が先に来て、妹と母を乗せて出て行った。
今まで、どんなに母が暴言や暴力で暴れていようと、私の泣き叫ぶ声が聞こえようと、ひっそり静まり返っていた近所のひとたちが、ひとり家に残った小学二年の私に次から次へと質問を投げかけてきた。
対応に追われている内に、父が帰ってきて、父と一緒に病院へ向かった。
既に妹の命は絶望的だということで、父の膝で母は大声をあげて泣いていた。
母が大声を上げることはしょっちゅうだったが、母が泣くのは初めて見た。

妹は、生まれて6か月でその命を落とした。
母がちゃんと見ていなかったからだ、所詮連れ子持ちの女はダメだ、あの連れ子が何か悪さをしたんじゃないか、そもそも赤ん坊を放置して連れ子の習い事に夢中になっていたのがおかしい、など、様々なことを親族が言っているのを知っていた。面と向かって、言われたこともあった。
私は、何も言えなかった。
母はそれなりに育児をしていたと思うが、人間は完璧ではないのだし、私がいたからだと言われれは否定もできなかった。

その後、妹の葬儀や様々なことが落ち着いたあと。
母からの虐待は、度を増して酷くなった、
嫌で嫌でしかたがなかったが、妹のこともあって、私はどこか諦めていた。
どうして、あの可愛い子が死んで、私はこんな風に暴力を受けながら生き続けていなければならないのだろうか。
もしあの可愛い妹が生きていたら、いつかこんな暴力を受けるようになるのだとしたら、死んで幸せだったのかもしれないなどとまで考えた。

時は数年過ぎ、小学校六年の時。
私の国語の成績がよかったこと、作文が比較的得意だったこと、それからどこから聞きつけたのか、妹の話のことなどを踏まえて、県の作文コンクールに妹のことを作文にして書いて出そうと言われた。
子供の目で見た、妹の死、というものを作文に書いて、世の中でこんな悲しことがもう起きないように、あなたなりのメッセージを伝えるのも、あなただからこそ出来る役割だと、そんなようなことを言われた。
私は嫌だった。何だかとても嫌だった。
妹が死んでから、私は家で妹のことを口にしなくなった。
妹の死後、家の中は当たり前だがどんよりとしていて、小学二年の私は、私なりに励まそうとでもしていたのか、出来るだけ明るく振舞っていたように思う。
ある日母が、
「あんたは、妹が死んでも少しも悲しまないんだね」
と言って、私を殴った。
それ以来、自分から妹のことを口にするのはやめた。毎日仏壇に手を合わせても、話題を振られても、口にしなかった。
そんな背景も知らず、担任は私に作文を書けという。
役割だという。
結局、断ることが出来ず、私は母から暴力を振るわれていることは書かず、妹が生まれてから死ぬまでの経緯をつらつら書いた。
担任からたくさん添削が入った。
簡潔に言うと、もっと美談になるように書け、という指示だった。
悲劇に終わってしまったが、妹の分まで私は幸せに生きて、いつか子供が生まれたら妹の名をつけるんだ、と付け足せ、と言われた。
その時点で、もう私の作文とは言えない気がしたが、事実は変えず、まるで物語を書くように書き直した。
酷く嫌な気分だった。

私が書いた妹の死についての作文は、受賞し、県の推薦文になり、発行されている作文集にも、何やら私にとっては見当外れの講評が載っていた。
小学校の表彰式でも褒め称えられたが、クラスメートからは妬み嫉みに嫌味のオンパレードだった。
そりゃそうだ、と思ったので、私は黙っていた。
隠していられるわけもないので、作文集を親に渡した。
母は怒り狂って、いつものように私を暴力と暴言で沈めた。
帰宅して事の次第を知った父は、何も言わなかったが悲しそうな顔をしていた。

私が悪かったのだと、思った。
たくさん言い訳はあったが、何があっても断ればよかったのだ。
別に、元々担任の先生のことは好きではなかったし、もっと毅然と書きたくないと、勝手に美談にするなと、お前の生徒が賞を取ることでお前の評価を上げるために妹の死を利用するなと、はっきりと言えばよかったのだ。
当時もそう思っていたのに、当時の私にはまだ、言い返す力がなかった。
いくら虐待をする母のことを嫌っていても、憎んでいても、妹の死についてこんな作文を書くことは、あまりにも残酷だと思っていたのに、断り切れずに書いてしまった。
だから、もう何もかも仕方ないと。
これから先、母からの私への虐待がより一層酷くなっても、私の罪はこうして形として残ってしまったのだから。

それでも、虐待そのものには屈さなかったので、今こうして私は絶縁をして生きている。
妹のことも、毎年ひとりでひっそりと偲んでいる。
しかし、あの作文のことだけはどうしても、蟠りとして引きずって生きてきた。
あの世というものがあるなら、妹に合わせる顔がない。

人間は悲劇を美談にするのが好きなようだと、ここまで生きてきて本当に思う。反吐が出る。
悲しいことがある中で、わざわざやらなくてもいい努力をすることを美談にしたがる。そういうひとたち程、やれというだけで、自分たちはその美談をお茶やお酒の肴にするだけなのだ。

私は、半年だけ妹がいたことを忘れはしない。
ちゃんと可愛いなと思えた赤ん坊、妹。
私自身は親というものになるつもりがないので、本当の意味での母や父の気持ちを知ることはないだろう。
しかし、友人がどんどん親になって子育てをしているのを見ると、大変そうではあるが、是非幸せになって、健やかな家族として生きていって欲しいと切に願う。

もし悲しいことが起きてしまっても、それを誰かに利用されないように。
一時の自分の気持ちで、美談にしたりさせられたりすることがないように。

どうしてもどうしても、あの担任に書かされた作文、断れず書いてしまった作文のことを忘れられず、私は今は、極端なほどに、嫌なことは嫌と、口にするようになったし、どうしても嫌なことは切り捨てるようになった。

相変わらず、感情の表現の仕方が下手くそで嫌になるけれど。
それでも、嫌なこと、納得できないことを、結局やってしまう自分よりは、気が重くても断ってしまう方が、その後、物事を引きずることも後悔することも少なくなるから。

私もこうして、結局文章を書いてしまって、これが美談か何かのように思われないか不安ではあるけれども、どうしても吐き出してしまいたかった。

妹の死は、決して美談などではない。
妹の分まで生きるなど、代わりになる命などない。
自分の子に妹の名前をつけて代わりに育てるなど、烏滸がましいにも程がある。

何も知らない他人が勝手に美談を作る。
作るのは勝手だが、それを本人に押し付けるようなことはやめて欲しい。

自戒と共に、ここに一つの荷物を降ろさせて欲しい。
小学二年から背負い続けた、私の人生の荷物を。

kaya

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