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簡単に賛否両論を暴論にしない

賛否両論
そのことについて、賛成と反対の両方の意見があること。特に、賛成論と反対論とで優劣のつかない状態についていう。

デジタル大辞泉

 様々な価値観のはびこる世の中を生きていることで、頭にいつの間にか刷り込まれているのは「賛否両論」という言葉である。あるいはこの表現は、私達にとってとても耳馴染みがよく、頭にこびりつきやすいのだろう。
 誰かと誰かが争っているのを目にする。はたから見れば、どちらにも正当性がありそうだ。そもそも、第三者にはその真の価値基準など理解しきれないことも多い。だからこそ、その争いは賛否両論だ。

 もちろん、確実に賛否両論にならない問題ごとも存在する。それは水が上から下へ流れるというような自然の摂理、私達が何らかのルールで定めた社会的な物事などになる。これらは、もう「そう決まっている」のだから、仮にその存在意義を根本から問い直す議論でない限り、賛否両論はありえない。
 とはいえ、実際のところどのような事象に対しても「賛否両論」と言うことはできてしまう。これは私達のとても厄介な思考のクセである。

 つまりどのような意見であっても、それを1個人として尊重せよ、ということにそうそう異議は唱えられないことが、このあらゆる賛否両論にかかわっているのだ。
 なぜなら、個性というのは様々で、したがってものの見方というのはいくつもあり、だからこそあらゆる事象には「賛否両論」がつきまとう。くわえて、私達はこの「両論」の割合をそこまで重視していない。というより、先のどのような意見も蔑ろにできないという命題ゆえに、それはたった1つでも両論の片方として機能させてしまうのである。

 実際には賛否が3対7であっても、それは両論だ。9対1でもそうである。要するに「賛否両論」といった時の幅が、ものすごく広くて、そして曖昧なのだ。少しでも別の意見があれば、ひとまとめに「賛否両論」としてしまうクセが、そこにある。
 だが明らかに差異があるのにそれを「両論」として、あたかも平等にあるように語ってしまうのは「暴論」である。できるだけ賛否は同じ数だけあるのが、本来の賛否両論の意味である。
 にもかかわらず、現実にはそのような賛否両論の使われ方はめったにない。あまつさえ、どちらかの立場(往々にして不利な)に立った上で、それを養護するために「賛否両論だ」と言うことさえある。

 そのような、賛否両論の道具化は正当ではない。これはきちんと両論であるべきだ。暴論ではいけない。そのためには当然に労力が必要となるが、可能な限りそれを惜しまずに、正しき賛否両論を私達は捉えていきたい。

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