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「あげる」という行為と、こだわりという「思い込み」

 誰かに、何かをあげるという行為は特別なものである。なぜならそれは、一見したところその誰かのためであるようで、実際はその提供する人のエゴでもあるからだ。
 つまりこの行為は、全く別々の、ともすれば相反する方向を向いているわけだ。だからそれは時として、必要のない施しであり、押し付けであり、自己満足になりえてしまう。

 誰かのためだと言いながら、そして自分のためではないと言いながら、しかし「何かをあげる」というのはエゴに満ちている。その最も顕著な1つが「こだわり」だ。ただあげるのではない。どうやってあげるのか? いつどこで? どれくらい? そんなことをあれこれ考え始めて突き詰めて、これだと決めて納得する。でもそれはエゴでしかない。エゴとは、自分の気持ちを優先することである。求められていない何かをわざわざ用意して、まるでそれが最前かのようにみせびらかす。

 それは、思い込みでしかない。こだわりとは「〜ねばならない」のかたまりで、勝手にその人の心に降りてくるものだ。しかもそれは、自分から自分に降りてくるものである。つまり「あげる側」がひとりてそうだと思ってこだわるものなのだ。
 そのため、本来であるならば、何かをあげる時にはこだわりは捨てるべきである。どうあっても「このようにあげたほうがいい」という思い込みが先行し、それは実際、ハズレだからだ。
 もし、生き写しのように好みが同じ2人がいるのなら、そのこだわりは成功するかもしれない。でも逆を言えば、それくらい好みが合致していなくては、そのこだわりはまったく意味をなさない。

 こだわりとは、何かをあげたい「あなた」の思い込みでしかない。それは残念だけれど、もらう「相手」からすればどうでもいいことだ。
 でも、だからといって「こだわり」が必要ないということではない。何かをあげるというのは、相手からすればもらうということである。それはどうあれ、特別なことだ。少なくとも自分のものでないです何かを、その人は手にすることになるのだから。
 そのために、その期待にだけは応えないといけない。そうしなければ、わざわざあげる意味はない。そこにおいて、あげる私達は考えることになる。その期待に応える「工夫」と、それ以上のエゴである「こだわり」との違いを。

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