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文化的≠高尚。懐古と、何かを見下す人間の悪癖

「文化的」という言葉を見て、どれほどの人間がそれを普通の単語として受け取るだろうか。
文化的とは少なからず、「文化として認められた」という意味が交じるように思える。
そしてその場合の「文化」とは、「伝統的なもの」「無くしてはならないもの」「普遍的に高い評価を得たもの」という、価値に関する意味も含まれたものになっている。

即ち、

・文化:
 とても価値が高く、代えがたいもの
・的:
 として認められた

このイメージを、私たちは拭い去ることが難しい。
文化的という言葉ひとつとって、ここまでの想像力を膨らませることができるのは、人間の悪癖によるものである。

つまり、なにかを見下すこと。
そしてまた、自分の知っている過去のものを美化すること。

少なくともこれらの悪癖によって、私たちは「文化的」を称賛する。
多くの場合、文化的とは伝統と結びついて、なにかそういった「昔のもの」に対して言われることが多いからだ。
また、現代のなにかを「文化的」としようとするとき、それと同じジャンルで、より古くからあるものを引っ張り出して来て、「より文化的」だ、とすることもまた、散見される。

ここに横たわる問題は、

・無条件に「文化的」を賛美すること
・その「文化的」なものは一定の歴史を持っていなければならないこと
・すべての基準が個人的なものであること

この3つである。
賛美することによって、あたかも「文化的なもの」の価値が高いかのように錯覚してしまう。
歴史を重視することによって、革新性や新奇性を無駄なものと捨て去ってしまう。
個人的であることによって、公平な判断や公正な審議を締め出してしまう。

こういった問題点を孕んでいる。

「文化的」は危うい概念だ。私たちを勘違いさせる。
それは高尚ではない。価値あるなにかという意味ではなく、私たちに馴染みがあるという意味だ。

誤解を恐れずに言えば、全ての文化は低俗である。常に批判されるべきで、論争が生じ、だからこそそれらの間に優劣はない。
まして、ある特定の文化に深く関わっていることや趣味としていることが、その人の地位を高めるものでもない。

文化的という言葉に惑わされてはいけない。
文化はもっとフラットである。
誰に選ばれるでもなく、誰を選ぶでもない。

そうしているのは私たち自身である。だからまず、その悪癖について自覚的であるべきだ。

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