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愛すべきムダを見極めて

 この世の中がどんどんと洗練され、ムダがなくなっていくのを目の当たりにする我々は、経験からムダというものをまさに「ムダ」なのだという意見を譲らなくなった。ありとあらゆる方法で、これでもかと潰されていくムダの末路。そしてそのために血のにじむような努力をする人々。そういった諸々の景色が重なって、ムダとは絶対的にムダでしかないのだと、我々は考えることになる。


 そのことを否定する誰かはきっといないだろう。でもそのことを、絶対的に肯定できるかと言われれば、きっとそうだと言える人はいない。なぜなら我々にとってムダとは、捨て去るべきものと、愛すべきものがあるからである。時間のムダ、スペースのムダ、労力のムダ。そういったものは、本当のムダとして出来る限りなくしたいもののはずだ。
 けれど、時間をかけてコツコツと趣味に費やしたり、部屋にたくさんのコレクションがおいてあったり、誰に認められるわけでもない何かを自己満足的に続けたりということを、否定するだろうか?


 理解できない他者の趣味をムダと断じるのなら、この世の遊びは全て消滅することになる。あるいは、こだわりや、目に見えない努力や、情熱や、それに感化される気持ちも、究極に効率化された世界では、なんの価値もないムダのかたまりたちである。
 どんどんとムダの排除が進む世の中は、そんな価値観を押し進めていることになる。そこには遊びがないということだ。遊びとは余裕のことである。余裕のない日々を我々は過ごしたいのか? そうではないからムダをなくそうと努力を続けてきたのではないだろうか。


 今、自分の行っていることや、持っているものや、費やしていることがムダかどうかを決めるのは、もちろんあなた自身である。そしてその責任も、もちろんあなた自身にある。重要なのは、自分で決めることである。ムダだろうがそうでなかろうが、その判断を自分以外の誰かに委ねることは、ムダな行為だ。それこそ、ムダを省くためにはあなた自身の「ムダ」を判断する意識と価値基準を、常に持つ必要がある。


 捨て去るべきものと愛すべきもの。その判断を鈍らせないことが、究極的にムダを省くということである。

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