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自己犠牲の精神と、心の平穏を

 自らを優先できないというのはよくある話である。下のきょうだいのために欲しいものを我慢したり、理不尽な目にあっても公の場だから我慢したりなど、様々な状況下において、私達は私達の優先順位を下げる。
 そしてそれは、当然に「誰かのためである」と思われているが、しかし実のところそれは「自分のため」である。

 つまり私達は、奇妙なことに自分のために自分を優先しないことがあるのだ。その権利があるのに何かを受け取らなかったり、必要がないのに代償を支払ったり。そうせざるを得なくて仕方なくすることももちろんあるが、そうでない場合はほとんど、私達は自らすすんで泥をかぶりにいっている。
 なぜなら、自分を犠牲にすることは自分が被害者になるということだからだ。そして被害者になることで私達は、加害者を作り出すのである。その人のせいで自分は苦労をし、傷つけられたのだという状況を作り出す。それはまさに、自分のためである。被害者に罪はなく、加害者にはある。そう思うことで、心のバランスを保とうとする。

 理不尽さを感じたり、不公平感を抱いたり、納得がいかなかったりするようなことは、日々の中でたくさんある。そしてそれらをすべて解消するのは、とても困難だ。ならば私達は、それを受け入れたふりをしつつ(実際に受け入れたと思い込んでいることすらある)、しかしその「甘んじて自らを犠牲にする」という行為が、加害者を明確にし溜飲を下げようとする、1つの防衛本能なのである。

 私達は、だから甘んじてしまう。自らではなく、他者を優先してしまう。それをしないのは、充分に強く、理不尽と正々堂々勝負ができる力と知識のある者だけだ。大抵の場合、その代わりに、私達は加害者を作り出し、被害者であることをはっきりさせることて、わずかばかりの心の平穏を保とうとするのである。

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