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実は誰も「古さ」を良いとは思っていない

 人は古いものを信用しない。なぜなら人の目は前だけについているからだ。後ろに目のある人はいない。だから後ろを見たことがある人は誰もいない…鏡を使ってさえも。目の位置が移動しない限りは、人はその「前」しか見ていないのだ。後ろを見たい時は振り返るか、景色を前に映すしかない。そうやって初めて後ろの状況を確認できる。
 そのため、人は自然と前を見ることを当たり前とし、生きることになった。後ろを見たければ前に持ってくればいいのだから、本当に後ろが見える必要はないのである。能力ではなく、人は技術によって後ろを見ることを覚えた。

 それは「古さ」についても同じだ。古いとは昔ということであり、昔とは時間的に後ろを指す。常に、前に進み続ける時間。人はますます、前を見て前に進む。後ろを見ることなど、特別な何かがなければしない。鏡のように、道具を使って古いものを確認することはあるかもしれないけれど、本質的に人は古いものを見ることができない。自分の後ろを見ることがないように。

 だから、それはあるかどうかわからないのだ。ゆえに信用できない。古いものはいつも、古いものというレッテルを貼られて存在する。昔のことは昔のこと。今は今。未来は未来。そう言う時、人はいつも見ている前のことを贔屓している。未来のことを希望として語る。まるで古いものは見えないかのように。見たことがないかのように。どうやって見ればいいのか、わからないかのように。
 そうして、古さは信じてもらえない。古いことは悪とさえ思われている。古きに学ぶことは新しきのためでしかない。昔を美化するのも、今の感覚があるからこそである。それは鏡に映された記憶だ。結局は人は前を見ている。方向を変えられない。それが生きるということなのかもしれない。
 私達はまだ一度も、後ろも、古いものも、直接見ようとはしていない。

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