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オリジナリティへのごかい ④作家性

 オリジナリティというものはとてもリスペクトされている。それを生み出せることはとてもすごいことであり、魅力的であり、何よりも達成しなければならないことだ。そう思われている。なぜならそれは、限られた人々にしか許されない何かであると考えられているからだ。そして特別なものだからこそ、それは丁寧に扱われなければならない。
 しかしそういった考えは、オリジナリティを本来の「あなた自身のもの」から、ただの言葉へとなり下がらせてしまう要因になる。

 即ち、オリジナリティと言った時に、その内実に関わらずその言葉が「看板」になるということが問題なのだ。私達は無意識にも、オリジナリティをこの世で振えることをすごいと考える節がある。
 原作付きの映画やアニメ制作陣、作詞作曲は別の歌手、作家に付く編集者……それらは、表現の源流や全部を担当していないというだけで、そうすることよりも位が低いと捉えられてしまう。だからできるだけ源流に近く、あるいは1から10まで全てやってのける「オリジナリティ」に、私達は最も注目してしまう。
 だがオリジナリティというのは創作性の1つの特徴であり、けして他より優れているというものではない。私達の操ることのできる表現方法は様々にあり、状況に合わせてそれらの中から選択していくというものであるにすぎない。それなのになぜ、オリジナリティは突出して、私達の注目度も期待値も高いものになってしまうのか。

 この、いわばオリジナリティ=作家性、即ち何よりも創造的であるという評価は、私達が承認欲求から逃れられないからこそ起こっていると言える。オリジナリティはまさに自分自身のアイデアであると捉えられ、即ち自己表現であるところ、それが発揮できることの許された人間というのは社会に承認されているのだ。
 だからオリジナリティとは、他の創造性の方法よりも上位にあるものだと捉えられてしまう。私達は自然、表現の中でもより自分自身が含まれるものを高く評価する傾向がある。
 だから、源流に近くないものや、全部にかかわっていないものに、私達は消沈してしまうのである。それこそが、オリジナリティの看板の効果である。「オリジナリティ」があると掲げられていることで、私達はそれを確実に認めるに足るものだと信じてしまう。

 それは確かに、感覚的には正しいのかもしれない。誰だって自分自身の全てを社会に認められたいものだ。しかし表現において、オリジナリティとは単なる方法であり、あるいは結果でしかない。私達は日々、様々な方法で自己表現をしているのであり、そしてその集合体としての表現が社会の役に立ち、そして認められている。その、少しずつの承認を、私達はあらゆるところから受けているのだ。
 オリジナリティの放つ光に惑わされてはいけない。それは看板でしかない。すごいすごくないなど、勝手なレッテルだ。それよりももっと、自身のなしてきたものを信じること。
 それがオリジナリティへの誤解を解く、五戒の内の1つである。

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