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「なんとなく」はなぜ理由にならないと思えてしまうのか

 あらゆるものには原因と結果があるが、それと同じように、あらゆる決定にはその根拠や意思があるものと思われている。つまり根拠なき決定や、意思なき決定というのはありえないのだと、誰でも思ってしまうということだ。
 とかく、私達はなんとなくが嫌いである。もしくは好ましいと思っていない。そこには意思も根拠もないからだ。なんとなくの決定が結果として良いものだったとしても、根拠ある良くない決定に優るとは、私達は言えない。
 どちらかといえば私達は、根拠や意思を伴うものの、微妙な結果に終わってしまうことのほうが喜ばしいとさえ思ってしまう。「いい結果に終わらなかったけど、やりたいことをやったのだから」とか「根拠は間違ってなかったが、やりきれなかったね」などのように、そこにはポジティブな言葉さえかけられる。

 世の中にとって、「なんとなく」よりも「根拠」のほうが信じられている。大事にされていて、より強い。
 しかし、残念なことにその根拠こそ、なんとなくでしかないのである。なぜ、なんとなくが良くないものだと感じるのか? 根拠あるほうが印象が良いのはなぜか? そういったことはあまり検証されない。ただ、私達は「確からしい」とされているものが好きなだけで、目に見えないものや確かでないものを、経験上、信じたくないだけだ。

 なんとなくは、もちろん無制限に信じられるものではない。何か決定をする時に、それを理由に進められることは少ないし、他者を納得させるのは難しい。
 だがそれは、いつも無意味なものではないし、むしろ私達の意思決定の出発点は常に「なんとなく」である。それはある種の直観だ。
 多くの理性的な経験を経てなお、人間にはまだ、「なんとなく」という感覚がなくならない。何かのデータや論理や納得感を待つまでもなく、私達はどこかで「なんとなく」を信じることがある。そしてその直観は、常に間違っているとは言えない何らかの決定をさせる。
 私達はつい、その「なんとなく」決めてしまったことに警戒をしてしまう。でもそれは、頭ごなしに否定されるものではない。少なくとも結果が良かったのなら、そのなんとなくは正しい直観だったのだ。なんとなくは、ただそれだけで悪者にされてはならない。それは私達の出発点であると同時に、1人1人の物事への観点を含んでいる。
 それを蔑ろにして忘れてしまうことは、あなたがあなた自身の決定を放棄することに繋がる。

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