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「コミュ力0」キャラは創作でしかあり得ない

 コミュニケーション能力は、現実世界では0にできない。0とは文字通り0であり、「無い」ことだ。もちろん、そもそもコミュ力は0にならない性質のものであり、自分でコントロールできるような力でもない。それでも、この能力はある程度の意識さえあれば「変化」させることは可能で、その人の状態や技術力、年齢、気持ちなどに応じ一定ではない。
(コントロールとは精緻な調整力を指すが、変化はもっとアバウトなものである)

 しかし、それは「キャラクター」においてはまた別だ。元来、キャラクターにとってこうした「能力」「ステータス」「技術」などは数値である。数値として管理されうるもので、言ってみればキャラクターのその瞬間の状態とは別に、基本の部分に「設定」されているものだ。
 それがまさにキャラクターの設定と言われるもので、まるでプログラムや数式のようにキャラに刻印されている。その数値は、適当な入力によって、ある決まったものを返す。甘いものが嫌いだから逃げ回るとか、女好きだからすぐにナンパするとか。その「特徴」は、キャラがどのような状態でも絶対に変わらないものだ。
 そうでなければキャラでないのである。キャラは、特徴あってこそだから。

 そういうことを考えた時に、「コミュ力」はどうなるか。つまり、キャラといえども生きていて、リアリティがあり、他のキャラと協力して生活しなければならないはずだ。だからコミュ力は0にできない。誰かと喋る必要があるし、協調性を持たなければ爪弾きにされる、そう思える。
 でも、そうではない。キャラだけは、即ち創作上の登場人物だけは、コミュ力がなくとも存在できるのだ。0とは文字通り0である。誰とも交流できなくとも、協調できなくとも大丈夫。
 しかも、それは変化しない。いつまでたっても、「コミュ力0のキャラ」はそのままだ(キャラが成長する作品でなければ)。

 キャラは、それができる。創作だからだ。ファンタジーとしての最も大きな特徴の1つと言える。コミュ力が0でもなんとかなってしまう。そのようなストーリーに出来る。シチュエーションを作れる。それが、キャラがコミュ力が0でも許されるゆえんだ。しかも、そうであることを格好良く、可愛くすら描くことができる。

 人間である以上、ある程度のコミュニケーション能力は必要だ。そうでなければ生きていけないから、もし0だったとしても、それを成長させていかなければならない。そういう必要性にかられる。
 でも創作上のキャラクターは、そうとは限らない。全くコミュニケーションが取れなくとも許される。なんとかなってしまう。むしろ、そうであるほうがいいこともある。
 コミュ力について、キャラクターと言う存在は特殊だ。こんなに0でいいことなど、現実ではありえない。明らかに、日常生活に支障があるレベルでも許されるのは、まさに創作である長所である。

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