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創作は自分をさらけ出すことだと本当にわかっているか

 具体例を思い描き、他者に届けるのが創作であるが、そこには1つの大きな問題がある。

 具体例を思いつくことなど誰にだってできそうだ。なんなら、この日常で思いつくあらゆることは具体的であるのだから、それを他者に届ければ良いだけだ。そういうふうに思える。
 でもそれは通用しない。というよりできていない。多くの人は自らの具体例をほとんど他人に届けることができないでいる。「そんな簡単なこと」ができないでいる。なぜなら具体例とは、個人的なこと…私たちそれぞれの、人生そのものだからだ。

 人生を、他人に渡そうと思える人は多分いない。それより大事なよほどのものがなければ、誰かに自らの生を明け渡そうとは思えないだろう。そして具体例を他者に届けることの最大の成功とは、最も個人的なことを最も最大の他人たちに届けることだ。
 それができるのなら、つまり、創作が成功したと言って良い。なぜなら届けられるということは、それが受け入れられたということだからだ。即ち、最も個人的なことが最も多くの他人に受け入れられた。これは創作における最も価値ある達成の1つである。

 具体例――さらに、個人的なことを、全く知らない誰にでも提供できる精神状態とは普通ではない。大抵は、それをしようとする手前で心のブレーキが掛かるものだ。そしてそのブレーキは、創作のための発想力や独創性、意欲をとても削ぐ。だから、創作とは成功しない。最後まで結晶化しない。壮大な作品として発表されない。取るに足らないアイデアとして捨てられる。

 これが、創作の「手前に」横たわる大きな大きな問題である。具体的な、それも個人的なことを適切な形として提供できるのなら、それが理想だ。しかしそれは難しい。そこの障害を、多くの人は断念してしまう。そんなものが創作になどなりはしないと、無意識の内にブレーキをかける。
 しかもこのことは、創作における最初の問題でしかない。
 でも最大のものだ。これだけクリアできれば創作がうまくいくという保証はないが、少なくともこれがある程度乗り越えられなければ、そもそも創作の成功という観点では、動けていないままである。

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