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我々は借り物の物語として人生を歩み続けるが

 この世のあらゆる物語は借り物であり、その中の多くが、いくつかの種類に分類される基本的な物語の型の、いずれかに属している。即ち、およそ物語と呼べるものは、あるいはストーリーと称されるものは、「オリジナリティ」を感じさせるように偽装された単なる借り物なのだ。

 そして1つの見逃せない事実として、「物語」や「ストーリー」というのは、なにもフィクションを指すばかりではないということである。それは現実的な人生を表したり、ある人の日常を説明したり、来歴を語ったり、そういう時にも用いられるものである。
 そうすると、私達の生とは、借り物の物語に属することになる。1つの真実として、我々の歩む日々がストーリーに回収される時、オリジナリティを謳いつつも、歴史の中で何かしらの前例があるような1つでしかない。

 ともすれば、この考えは虚しい。私達は自らを唯一のものとして生きているはずだが、それはいつかどこかで行われた何かであるということだ。歴史とは繰り返しの上で紡がれるものであるわけで、それを構成する1つ1つが私達の生である。
 そのことを受け入れようが受け入れまいが、「物語」そして「ストーリー」とはこのことを、フィクションに対してもノンフィクションに対しても定義づける。それは「型」だ。なされてきた既視的な流れ。理性的に分類される、逸脱のない決まり。

 しかしなお、人生とは自分自身のものである。それは単に、別の物語と似ている、どこかで似通っている、以前にもそうであった、というだけのことだ。だからといって、この、今の物語というものが必要のないものでは当然ない。なぜなら分類できるというだけで、同じではないから。
 そのことを、私達はオリジナリティと呼んでいるのかもしれない。形式上、確かにその紡がれるストーリーは借り物であるかもしれないが、「今」になされるという点で、それはオリジナルである。物事とは徐々に更新されていくものであり、大部分が基本的な型に属していると言えたとしても、自分自身が現代にて歩み続けている事実は、どんな型にも記録されていない。

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