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ゲームは感情の深度が高まる。だからそのストーリーも

 ゲームのシナリオ(ストーリー)というものは、昨今ではそれなりに注目されている物語の種類であるが、ゲームというエンターテインメントそのものが、言ってみれば若いジャンルだけに、その確固たる方法論というのは確立されていない。
 元々、ゲームはチームアップで制作され、関わる人間も多かった。そのために、シナリオという企画やクリエイティブ(イラスト等)近しいものを組み立てるのは、必ずしも「シナリオの専門職」というわけではなく、様々な職種が兼任で行っていた。そういう歴史もあり、シナリオはあくまで、ゲームの他の部分のおまけや、それを活かすものとして構築され、なくてはならないものだったが、主役ではなかった

 ゲームのストーリーが、漫画やドラマなどの他のジャンルのそれと違う1番の部分は、ストーリー単体で成り立つエンターテインメントではなく、遊びながら物語に触れていくという提供のされ方だ。
 ゲームは、言うまでもなくゲーム部分が最も重要であり、ストーリーはそれに味付けや彩りや雰囲気や世界観を与えるものと言える。これは、表現が制限された時代には当然のことであり、1文字でも入れる容量があるくらいなら、その分をゲームシステムの部分に回したほうがいい、ということは当然だった。
 時代を経て、ゲームに容量の制限が(見かけ上)なくなったところ、ストーリーというものに重きが置かれ始め、その表現方法、演出などとともに進化が続けられていった。

 そういった事情を踏まえても、なお、ゲームのストーリーというものは、あくまでもゲームと一緒に提供されるものである。だから、そのゲームをプレイしている人々に受け取られるものであることを、きちんと踏まえたものでなければならない。
 忘れてはならないことは、ゲームは「プレイ」するものであるということだ。これは、そのゲームの世界観や、登場人物の行動や、あまつさえストーリーの行く末にすら、プレイヤーが「介入可能」だ、ということである。

 そのため、他のストーリーを中心としたジャンルと比べ、ゲームにおいて展開されるストーリーに対して、そのプレイヤーはより強い能動性を感じる。即ち、ストーリーをより「自分ごと」として感じるのである。感情移入の深度が高まると言ってもいい。
 この現象により、ゲームのストーリーは、他のジャンルとは違う受け取り方をされるようになる。つまり、特に、キャラクターの動機や、行動や、その行く末に関して、非常にセンシティブ(敏感)になるのである。
 より深く感情移入しているのだから当然である。あるいは、プレイヤー自身が選択したり、キャラクターをコントロールしているのだから、そうであるに決まっている。

 ゲームのキャラクターのあれこれについて敏感になるということは、それを描写するストーリーが、少しでもプレイヤーの感情と離れてしまうと、とたんに拒否反応が出るということに他ならない。我がことなのに、我が思いの通りにならないというのはおかしな話である。
 ゲームというものの表現に制限や技術的な障壁がなくなり、ストーリーも自由に展開できる今にあって、ストーリーそのものはどんどんゲームから独立しつつある。これは、ストーリーがゲームから解き放たれ、プレイヤーのコントロール下に置かれにくくなっていることも、同時に意味している。

 そのような状況にあって、ゲームのストーリーは、プレイヤーの感情から離れやすくなっている。まだまだ、技術の体系化には程遠く、幾人かの経験と勘によって制作が行われているところ、事態だけがそのように先へ先へと進んでしまっている。

 ここに警鐘を鳴らすのであれば、ゲームのストーリーは他のジャンルよりももっと、その「受け手の見たいもの」を考慮しなければならないということである。それは時として、現実的な整合性や納得感や道徳観とは離れてしまうかもしれないが、そのストーリーが「ゲーム」に紐付いている以上、そして「プレイヤー」に提供するものである以上、このことは一時たりとも忘れてはならないルールであろう。

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