見出し画像

物語の型としての「正負」

 物語の型には大きく、「プラス」と「マイナス」がある。前者は受け入れること、後者は排斥することを物語の軸とし、その楽しみ方をそれぞれ規定する。

 だが基本的には、現実の排斥を目指そうとする物語よりも、あらゆる可能性を内包しようとする物語こそ、「物語としてのあるべき姿」と認識される。なぜなら何かを排斥しようとする「マイナス」よりも、何かを受け入れていくという「プラス」な操作が、私達人間にとっては「心地良い」からである。
 まさに、あらゆる可能性を受け入れることが理想的であるからこそ、私達はそれに憧れる。そのような者をぜひ見てみたいと思う。理想郷を。「プラス」の物語はそこをきっかけとして、物語の受け手を増やしていくことが可能だ。

 一方で、「マイナス」の感情の物語は、この現実にある何かを、あってはならないものとして貶したり、蔑ろにしたり、貶めたりする。これはある種の復讐譚である。物語内のキャラ同士が起こす復習ではなく、物語の創作者が、ある現実で見聞きした事象に対する。
 重要なこととして、確かにプラスの物語は、その受け手を心地よくするが、このマイナスの物語も同様に、その受け手にある種の「爽快感」を覚えさせる。つまり、同様にマイナスの物語は、その作用で受け手を増やしていくことが可能だ。
 つまり、物語の理想としては、まさに理想的な内容を取り扱うプラスの物語に分がある一方で、どちらが好まれるのかということになると、プラスもマイナスもそれぞれの長所があるのである。

 つまり、あらゆる可能性を内包しようとする物語と、この現実の何かを排斥しようとする物語は、どちらも同じくらい好まれている。それは私達が、理想的な可能性を追い求める一方で、現実的な悲劇にうんざりしているからである。
 私達は、この生きている中でプラスとマイナスの間で揺れている。その感情の振れ幅を敏感に汲み取り、物語と為したのが「プラスの物語」と「マイナスの物語」である。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?