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清く正しくを他者にばかり求める社会

 配慮が求められる時代だ。
 発言のひとつひとつ、行動の一挙手一投足、思想、社会への姿勢など、私達の様々なものはやんわりと監視されている。そして当然のように品行方正、清廉潔白が求められる。しかもそれは、あらゆる他人から。

 だが配慮とは本来、それを求められるからするのではない。それは、自発的に思い至るからこそ、するものである。だから実際のところ、配慮が求められる社会というのは歪んでいる。求めなければ配慮できないこともそうだし、そもそもそれを求めてしまうということもそうだ。
 私達が配慮を求めてしまうのは、あらゆる人と繋がっているからこそである。それは常に監視されているという感覚だ。恐怖心とも言える。あらゆる人の感覚に思いを馳せなければならないという、得も言われぬ恐怖心は、他者への清廉潔白を強いることに繋がっていく。

 今の私達は、多くの人がこの世界にいるのだということをまざまざと実感するしかない。自分はひとりではないのだ。そう思えるほどに、この世界は簡単に繋がっている。
 それでいて実際には、私達が身体的に繋がりを実感できる人々の数には限りがある。するとそこに、実際と感覚のズレが生じる。このズレをどうにかしたくて、私達は他人に、もっと世界的な感覚を持たなければダメだと思いこむことになる。

 とはいえ、そのズレによって自分自身の行動を直そうとはなかなか思えないのが、私達である。行動を戒めることは、なにより、自らに課すことの難しいものだからだ。自分に甘く、他人に厳しいというのがスタンダードである。それゆえに、目の前にいないあらゆる人のことを配慮しなければならないと私達が思う時、それをまずは他人に求めてしまうことになる。そうすることで、自分は良いことをできたのだという、満足感もある。

 配慮社会の現実とは、私達ひとりひとりが、自分自身に課すことの難しいものを、他者に課そうとする理不尽だ。そこに提示される品行方正や清廉潔白は、確かに正しくはあっても実に空虚である。
 とはいえ、その道徳への意志を抑えることはできない。できないからこほ、他者に潔白さを求めるにしても、私達の目は常に自分にも向けられているべきだ。恐ろしいのは、ただそれを他者にのみ要求して、自身とはなんの関係もないものだと思いこむことである。

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