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集団の長は誰のなんのためにいるのか

 ある集団を率いるというのは容易な話ではないが、しかしその瞬間は社会活動において、誰にでも必ずやってくるものである。それがどの程度のレベルか(難易度とか、規模とか、期間とか)にはかかわらず、とにかく私達は「関係する生き物」である以上、集団と向き合う必要にさらされ続けている
 だからこそ、その集団というものをどのようにとりなすのか、という問題については様々な論が出てくる。
 それらは様々な独自理論を展開するものの、ある1点については必ず言及せざるをえない。それは「長」だ。集団を取りまとめる役柄については、もちろん避けて通れるはずがない。どのように集団や組織をまとめるのか、うまく運用していくのか、成長させていくのかというのは、その長に、まず大きな責任と裁量があるからだ。

 ここにきて、しかし往々にして私達は、この長の振る舞いについてよく考えなければならない。というのも、言うまでもなく長について大切だということが分かっていたとしても、その本当の大切さというのはどうしても実感しにくいからだ。
 即ち集団の長についての勘違いが、そこにはあるのだ。たとえば、長は集団のまとめ役だというものだとか、長は様々な人の意見を聞けねばならないとか、長は話し上手がいいとか、そういった類のある種の神話である。

 しかし長は、けしてその集団に調和をもたらすものではない。また、バラバラの個人を1つにまとめ上げる役割を担うわけでもなく、意見を聞く必要もなく、話下手の可能性だってあるものだ。
 唯一の特徴とは、まさにそこに責任と裁量があるというところのみであることを、忘れてはならない。長は長であり、集団の代弁者を気取る意味はない。また反対に集団から孤立するのは、責任放棄である。

 多くの場合に見落とされるのは、この長としての自立性である。集団の調和を重く見るあまりに、長が集団の運営に腐心し、無意味なまとまりにこだわるさまがよく見られる。
 しかし長の目的は、むしろ集団の外にある。その集団を率いて、どのような成果を上げるのか、誰のために何を目指すのかということにこそ、長は気を配らなければならない。集団の運営とは、そのためにあるもので、調和とはそのための手段にすぎない。
 だから長は手段としての集団を運営することに、腐心するべきなのだ。そうすることを期待されて、責任と裁量を与えられている。それを忘れて、単なる集団の調和者や、傲慢な暴君になるのは意味が違う

 ある集団を率いるというのは容易な話ではないが、しかしそれは、率いるということの意味に向き合えていないからだ。
 それはあくまで手段であり、目的は集団の外にあるということ。そしてそのための責任と裁量であること。だが、それらを自分のために最大化しないこと。
 後は、それぞれの集団における大切にしなければならないことに目を向ければ、きっとその集団はうまく運営できるはずだ。目的と手段をわけ、それらがなんのためにあるのかを落ち着いて整理することで、集団の長はきちんと集団を管理していける

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