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定常性にヒビを入れ、そして異常性を

 何かをそのままに保つとか、変えたくないというとき、そこには定常性の倫理が働いている。これは、物事が予測不能な方向へ行かないように厳格にコントロールするための倫理であり、ルールである。
 定常性は、非常に魅力的なルールで、私たちはともすれば無自覚にこのルールに従い、そして無遠慮にこのルールに従わせようとする。

 定常性には魔力があるからだ。それは見方によっては、「何もしなくて良い」「現状維持」に映る。特別なことをせずに、ただ規則や前例や常識の傘の下で過ごしていれば良い。それは静かだ。何も邪魔することのない清浄な状況に思える。
 だからこそ、定常性は支持される。それに反対する理由がないからだ。波風を立てなければ悪いことなど起きるはずはない。定常性の倫理の中では、「何もしない」ことは正義である。

 けれど、何もしないことが悪になることは当然ある。というよりも、「何かすること」を抑え込む力が定常性にはある。定常性の倫理にとらわれた人間やコミュニティは、その清浄なる世界を守るために、侵害されないために、あらゆる行動を検閲する。
 このような状況になると、定常性の倫理は全ての自由を奪い、そこに変化や改革や調整や後戻りや、その他あらゆる「定常でないもの」を排斥する。
 そこにはもちろん、人間として当然あるべき進化の姿勢も、前進していこうという気概もなく、ただただ「現状維持」である。

 だが、現状維持は後退であると気づくことが、人間には何より大切である。人間はその理性によって、自分自身を含めたあらゆるものをアップデートしていく存在だ。だから、常に一定であることを当然とする「定常性」に、人間的な未来はない。それは最初から破滅が約束されている倫理性であり、清浄な世界など、まやかしに過ぎない。

 それでも、その一瞬の清浄を求めて、定常性にこだわる人々は後をたたない。そしてその人々がいる限り、それに続く人々もまた、然りである。

 定常性は永遠には続かない。つまり、定常ではない。それは、定常性を望む人々にとって最も由々しきことのはずなのに、定常性の倫理においては無視される。都合が悪いからだ。
 しかし、何かをそのままに保つことや、変えないこと、「余計な」ことをすることにはエネルギーがいる。つまり疲れてしまう。そのために私たちはともすれば、この定常性によりかかり、それを守ろうとしてしまう。不必要に定常的になることは、人間としての進化を捨てることと同義だ。

 だから私たちは人間としてあるべき、「異常性」を望まなければならない。あるいはそれを、受け入れる心くらいは。
 定常性とは反対を向く倫理としての異常性には、未来への種がある。

 何もしないことは楽だ。現状維持は難しくない。しかしそれには未来がないことを、あなた自身分かっているはずである。

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