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物語はまず ”外部イメージ” よりはじめよ

 物語を考えてみたのはいいものの、どうにも精彩を欠く気がする。ストーリーを構築してみたものの、どうにも破綻が目立つ。キャラクターが魅力的でない。物語の制作とは、かようにして試行錯誤の連続であり、最初からうまくいくことなどありえないものだ。

 それはなぜか。物語とは実際のところ、永遠に完成しないものだからだ。完成するということは、それは終わってしまったものになる。終わってしまうとは、その物語の中にあるすべての物事と、全てのキャラクターが「解決」してしまうということに他ならない。けれどそんなことはありえない。
 物語とは、たとえ完結してもまだ、何かを語る余地があるものなのであり、そうでなければ物語とは言えない。とうの昔に終わった物語の世界やキャラクター達は、また語られ始めることを今か今かと待っている。

 だからこそ、それを御すのは難しい。暴れまわろうとする馬を制御するのと同じように、物語を大人しくさせるのは至難の業だ。加えて、おとなしい物語とは魅力にかける。死んだ物語と言ってもいい。走り続けることこそが存在意義である物語を押し留めて御しても、蝶を標本にするが如し矛盾がそこには生じる。

 そのために、物語は生きたまままとめ上げることが肝要となる。そうすればそれは色鮮やかに、破綻も少なく、キャラクターも魅力的である。そのような物語を制作する方法とは、ひとえに「外部イメージ」だ。
 つまり、物語を制作しようとする誰かの頭の中にあるイメージではなく、既に公表された物語から得たイメージを、用いるのである。物語が生きたまま、しかし1から構築されることの難しさは、まさに無謀に等しい。
 ならば既に生きている物語の生き様や、動きをまねることは、それよりは簡単である。そして間違いが少なく、期待した通りの結果になりやすい。その上、この「外部イメージ」とは、物語を視聴した際のイメージ・記憶ということである。即ちそれは、視聴差目線だ。従って、そのイメージを自身の物語制作で用いることは、独りよがりになりがちなそれに、きちんとした視聴者目線を適応することに繋がる。

 つまり、外部イメージは物語の「視聴者から見た魅力的な部分」を表していることが多いのだから、それを新たな物語に転用することで、同じように魅力をだそうということである。
 それは模倣であり、参考であり、敷衍であり、拡張であり、延長だ。
 既に成功したもの、印象に残っているものが失敗などするはずがない。だから、新しい物語を制作する時、なによりもまず「外部イメージ」より始めることが、重要なのである。

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