処世術とは「正解」ではなく「納得」
処世術
自分を世渡り上手だと自信を持って言えるだろうか。胸を張ってこの社会を上手く立ち回っている自覚があるだろうか。誰も、そうは言えないはずだ。
特に近年、世渡り上手も巧みな処世術も、それ以上に難しい社会生活と、他者との関わりのトラブルの多さに、簡単に押し流されてしまうような理想論になってしまっているから。
上手く立ち回るなど二の次で「普通」にやっていくのさえ苦労ばかりとみな思う。多様な価値観に翻弄され、正解も、目指すべき姿もわからずに「ありのまま」を肯定されている。
処世術とはそんな社会を生き抜くための方法であるはすだ。
ならばそれは、そういう社会にこそ役立つ何かでなければならない。
でも、私達の知る処世術とは「正解」のことである。こうすればいい、ああすれば上手くいく、そんなテストの答えと解説のようなものだ。けれど社会生活はテストではなくて、私達1人1人に配られる問題は異なっている。
模範解答は役に立たない。むしろ模範解答通りの人生など、もはや誰の人生でもない。だから困るのだ。処世術など、上手い立ち回りなどいったい誰のためにあるものなのだろうと。
それでも確かに、世渡り上手と言われる人々がいることを、私達は否定するわけではない。単にそれが自分ではないのだろうと思うだけで、このような難しい時代にも、そういうすごい人はいるのだとわかっているはずだ。
ただ、処世術とは人生の一般論である。それは誰にでもできるから「術」という。誰かにできるのなら、それが誰であっても、自分にもできるはずのものなのだ。自分に合わせた正解があるだけで。そしてそれを見つけ出し、正解を出すのは自分である。
つまり、そういう意味での正解なのである。
今や処世術とは他者の言うことを聞くものではなく、自らが納得するために、そしてより良く生きるために、自らの術として作り上げるべきものである。
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