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短編小説

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#ストーリー

人身事故と非常時の怒り

 人身事故で停車した満員電車の中で聞こえてきたのは多くのため息と舌打ちだった。慌てて電話を取り出して遅刻の連絡を始める会社員。その隣の背の高い女性が、少し顔を上げてまた何事もなかったかのようにスマホに目を移す。熱気と湿気が身じろぎすらできない空間の中で渦巻いていた。冬の外気は寒く、いつの間にか電車の窓ガラスは曇っていた。多分、みんなのため息がいっそう車内を暖めたのだろうと思う。  その靄がかった窓ガラスには、こんなにも混雑した車内の人々の様々な顔が映っている。しかしみな、一様

アリ、そして母のお菓子作り

 ゼリーに溺れてアリが死ぬということを、私は知ったのは小学生くらいのことだった。アリは溺れる。昆虫だから顔が埋もれても大丈夫なようだけれど、もがくうちに全身が埋まってしまうともうダメだ。他のアリが異変に気がついて、助けようとするのか溺れるアリに群がる。私はそれをただ見ている。ゼリーは、アリ達にとって、降ってわいた恵みだ。普段はそのようなもの、自然の中にはない。ただひたすらに甘く温かいその糖分の波に、アリ達は誘惑されて、犠牲を出していく。  誕生日に、親にねだって買ってもらっ

宇宙の内外および理想と実情への想い

 私は宇宙的空間とやらに理想的な思いを巡らせたことなどただの一度もないが、人々が空に憧れ、上を目指し、あのどこまでも続く星々の空間の中へ飛び込んでいきたいという欲求は、充分に理解しているつもりだった。それは人々の「内側」に、それら自身の宇宙空間があり、そしてそこに住まう宇宙人がいて、生態系があって、出来事があるのだ。その限りにおいて、宇宙はまだ人々と幸せな関係を築いている。  しかし、人間の「宇宙飛行士」という職業は、昔ほどは手の届かない存在ではなくなり、それどころか金さえあ

濡れている身を隠した木々と、リスの温もり

 そんなつもりはなかった。  ただ、彼は押しただけだった。そのバタバタともがく後ろ足を見て、手を伸ばしたら届きそうで、人差し指で触れてみると暖かくて。  生き物は温いのだと思いだしたのはその瞬間だった。彼はその時は全身ずぶ濡れで、雨でもないのに身体を震わせながら、そろそろ走るのも限界だったから。慌てて飛び込んだ公園の低木に身を潜めて、バタバタとすぐ横を駆けていく怒声に身を縮めた。  しばらくの時間が経って、彼は低木から顔を覗かせる。ずぶ濡れだった衣服は彼自身の体温でぬるくな

やる気の出ない仕事と、嫌いな人と、好きなもの

 星の形をした風船と、水玉模様の傘と、甘くないカフェラテが嫌いなのだと、彼はガラス張りの如何にもおしゃれな会議室で力説していた。片側の壁には大きなスクリーンがあって、そこには今日の議題の資料が映っている。反対側に皆が座っており、私はそんな彼らをスクリーンの横から見ている。  つまりプレゼンターは私だ。だからそのような雑談はやめて、さっさと進行させてほしい。でも彼の話を誰も止められない。それはいかにも仕事の話に結びつきそうで、あるいは人生の教訓的な何かに繋がりそうで、しかしその

ミヒサの日記

 江湖育三郎は齢110にして大往生を遂げた現代の大富豪である。別れに際してその終の住処である都内の邸宅周辺には交通規制が敷かれ、時の政治家や財閥の関係者等々、1000人は下らない人数がその最後の挨拶に参ったと言われる。ひっそりと、しかし豪奢に執り行われた育三郎の別れの儀式は、多くの関係者の涙と惜しみに見送られ、滞りなく終了した。  それほどまでに影響力のある人物の残した財産は莫大で、その多くは直系の息子である陽介に受け継がれることとなった。しかし育三郎はその晩年には少しずつ持

水の中に揺蕩う常識

 目が覚めるとそこは海の真ん中で、仰向けになってただ一人浮いていた。真上には太陽がその光を余すことなく見せつけて暑く、かと思えば背中側は、ぬるいのか冷たいのか分からない奇妙な海水の不快な感触に辟易していた。かろうじて視線で左右を確認するも誰もいない。船もなく、空に飛行機どころか鳥すら飛んでいない。ただただ、太陽と海水。真っ白な光と青黒い海面。不安感に叫びだしそうになりながらも、うっかりするとそのまま沈んでいってしまいそうな自分を必死に抑えて、脱力したまま浮いている。そうしてし

父と母の今と昔

 小学生の時、将来の夢を書けと言われて書いたのは多分、父親の職業だったと思う。それは確か普通の会社員というわけではなかったけれど、それほど希少な職業というわけでもなかった。その頃のことがそんなに曖昧なのは、ちょうど父と母が離婚しようかしまいかと家庭内がそれはもうぎくしゃくしていたからで、正直、小学校高学年までそんな大して意識していなかった父親の職業というものに、せっかく興味が持てるタイミングを逃してしまったのだと、今にしてみれば思う。  父親の職業。そして母親の職業。そのよ

変わりゆく「人」と、自分との関係と

 自分が友人を失って手に入れたものは、すぐにいっぱいになる郵便受けと、電子メールボックスを圧迫する勧誘メールと、電話やSNSのメッセージと、それらを無視しても数分おきに携帯に現れる通知だった。友人を失ったのは現実のことだったが、代わりに現れたそれらの殆どは自分の目の前に現れるわけでもなく──画面上や音声としてはあるが、空間を共有していないという意味で──ただただ、自分の時間と精神を蝕んでいった。  周囲の人からは「無視が1番」とか、「そのうちいなくなる」とか、「気にしなければ

中庭と感覚と、教室と負けず嫌い

 どちらかを選べと言われて、正しく選べたことはあっただろうか。  それが個人的な問題とか、善悪、プラスマイナス、増減などという方向性のはっきり違うものであったなら自信はある。  けれどそうでないものの中から選べと言われたとき、果たして、自分の納得のいく答えが出たためしがない。  この色とあっちの色どちらがいいとか、今日のご飯とか、寝る時の身体の向きとか、努力と才能どちらが優れているか、とか。  「碧、ここにいたんだ」  学校の中庭には、鯉が飼われている池がある。その池の側に

「才能」と「努力」という言葉を、誰も知らない

 この宇宙にはまだまだ知られていないことが多い。  星星の輝く宇宙の外にはなにがあるのか。  月はなぜ地球の衛星となったのか。  生き物とはどうしてこんなにも精緻な仕組みで作られているのか。  私たち人間の身体と心の境目はどこにあるのか。  そして、才能と努力とは、いつ、どこで、それが手に入るものなのか。  その日、大倉崇は日課のウォーキングのために朝5時に家を出た。澄んだ、冷たい空気が鼻にツンとした。まるで寒さに怯えるように、フリースの上下がクシャクシャと音を立てる。前夜