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歌舞伎町放浪記

1986年(昭和61年)
日本のバブル景気の中、昭和天皇崩御
昭和から平成の時代を駆け抜けた激動の年月

絶体絶命!両手には手錠、額には拳銃
田舎者の私に降りかかる試練と災難
命の危険に晒され、自分の考えの甘さを知る

仕事が無い事の辛さ、お金を稼ぐ事の難しさ
ホームレスの様な、その日暮らしの中で
やっとわかった世の中の現実

何度も泣いて何度も絶望し、心が折れそうになっても
私を支えたものがあったのです!


歌舞伎町放浪記 目次

🔶第1章    借金地獄
🔶第2章    東京・・・未知の世界へ
🔶第3章    取るか取られるか
🔶第4章    生きるか死ぬか
🔶第5章    嗚呼、新宿歌舞伎町!


🔶第1章  借金地獄

今から30年以上前の1982年から1985年、昭和57年から昭和60年頃は、TVのニュースで、サラ金苦による自殺や一家心中、無理心中のニュースが毎日の様に報道される時代でした。私はそのニュースを見る度に「明日は私の番だ」といつも思っていました。
昭和55年12月8日、当時、私は国鉄職員だったのですが、元ビートルズのジョンレノンが射殺されたニュースを聞いて愕然としました。発売されたばかりのアルバム「ダブル・ファンタジー」は、突然悲しみの遺作になってしまい、私は強い憤りを感じました。10歳の頃はグループサウンズにあこがれ、12~13歳頃には、ギターやドラムを覚えバンドを組んでいた私にとってジョンレノンはカリスマで有り、憬れの存在でしたので追悼の意味もありジョンレノンやビートルズの曲がいつでも聞けるスナックを始めようと考えたのでした。
新潟県の長岡駅東口に有った廃業してボロボロの喫茶店を借り受けて、「喫茶ジョンレノン」を開店したのです。そこはカウンターのみの店で6~7人も座れば満員になってしまう、2坪程度の店でした。
看板も手造り、壁やカウンターも、自分でペンキを塗りました。まだ20歳だった私は、給料も安くお金が有りませんでしたので、宣伝用のマッチは、あちこちでもらったマッチに印刷したシールを貼り付けて店のマッチとして使っていました。
シールをはがすと、他の店の名前が出てきますのでお客さんから、嘲笑された事も有りましたが、ビートルズファンクラブの集いで司会者が店のマッチを紹介してくれたお陰でビートルズファンやジョンレノンファンがマッチを貰いにつめかけ、開店前から行列が出来た事もありました。自分で描いたジョンとヨーコの似顔絵とジョンレノンの名前、裏には英語で「イマジン」の歌詞をのせて、背中には、生存した年「1940~1980」と記載しました。下地は金色で黒文字でしたので、とても目立ったのです。又、当時乗っていたカワサキの750CCのバイクZⅡRS750をいつも店の前に停めていましたのでバイク好きのお客さんも来てくれたのです。

私の本来の仕事は新潟鉄道管理局の長岡操車場で貨物列車の入換作業でした。周囲には長岡駅、南長岡駅、長岡機関区、長岡運転所等が有り、この一帯は鉄道主要エリアでして、長岡操車場は24時間貨物列車の発着が有り、入換作業も24時間体制でした。私も24時間徹夜の仕事で、1ヶ月に8日~10日程夜勤をすれば、非番、公休、休みと続き他の20日~22日程は自宅待機と云う勤務形態だったので、国鉄と店の二足のわらじを履く事が出来たと云う訳です。
国鉄は今のJRの前身で昔は三公社五現業と云って三公社は日本国有鉄道(JR)、日本専売公社(JT)、日本電信電話公社(NTT)。五現業は郵政、造幣、印刷、国有林野、アルコール専売でした。今は国有林野を除いて民営化、又は独立行政法人に移営されていますが、三公社五現業は国営企業だったので職員は皆公務員でした。
当時、長岡操車場は日本でも有数の貨物ターミナル駅で職員も沢山いましたので、ジョンレノン開店当初から非番や公休の職員が入れ替わり立ち替わり来店して入りきれず、一つの椅子に二人が座ったり立ち飲みしている人もいる程大盛況でした。
毎日会社の仲間達で大賑わいとなり、そのうち、近くの病院の看護婦さん達や高校生、大学生等が音楽を聴きに来てくれるようになり、国鉄の独身の男達は出会いを求めて連日遊びに来てくれたのです。
そんな時、突然長岡市の用地課から連絡が有りました。それは上越新幹線開業に伴う長岡駅開発の為に、店を立ち退けとの内容でした。国鉄職員でも有る私が新しい新幹線の駅を造る事に反対出来る筈もなく、立ち退きを余儀なくされたのです。
交渉の末、長岡市から150万円の立ち退き料が貰える事になりました。しかし、150万円貰っても他に店を造る事等出来ません。そんな時、近くの新築ビルの2階に入っていた小物雑貨店「ファンシーハウス」が店をやめると云う事でその不動産屋を紹介して頂きまして、そこに喫茶ジョンレノンを移転する計画を立てたのです。手元資金も乏しく、とても店の契約金や内装費用はは足りませんので、銀行から300万円程の融資を受けて、何とか新しい店を造る事が出来ました。

以前のカウンターだけの店に比べてボックスシートもありカウンター7人ボックス3個で12~13人、団体さんなら20人程入れる店が出来たのです。
そこは駅近ですが2階で家賃も高く人件費も必要と云う店でした。
以前の店と比べると収容人数は3倍ですが家賃等の経費は10倍以上となっていました。その頃になると職場内では、公務員なのに商売をやって儲けているとのうわさが立ち、あれほどいた国鉄職員のお客さんは徐々に足が遠のいていきました。
更に女子高生が私服でやってきて煙草を吸っているとか、高校生の溜まり場とか不良が集まっているとかの噂もたち、近くの高校では、朝礼で校長先生が「駅裏のジョンレノンには行かない様に」との名指しの訓示が有ったと云う程でした。



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