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「メンやば本かじり」図鑑、それは素晴らしい編

 最近、メンタルがやばいのは年齢のせいでは、と疑っている。

 なにせ、少し前に『老人と海』新訳版が角川文庫から出たので読んでみたら、サンティアーゴの孤独に共感し、涙を流してしまったではないか!

 昔読んだときは、サンチャゴ(やはりこちらのほうが馴染みがある)を「ちょっと情け無いなあ、おじいちゃん」くらいの目で見ていたくせに。今や「サンチャゴー」と号泣である。

 こりゃ、完全に老いでメンタルが脆くなってるわ。

 ならば、このメンやば状態継続中なのも仕方あるめえ。

 と、

 言いたいところだが。

 私のメンやば状態は、今にはじまったことではない。

 断言できる。したらあかん気もするけど。

 なぜなら、私は生まれたときから鬱、みたいな人間だったからだ。

 幼少期はほとんど口をきかない子で、お人形あそびをすれば、すぐ自◯ごっこばかりしていた。小学校にもあがらない子供が、ぬいぐるみやシル◯ニアを手に持つと、なぜか高いところに登らせ「さよなら」というのが決めゼリフだった。

 やばい、やばい、やばい、お子さま時代の私、激やべえわ。

 そんなメンやばなお子さまだったので、しょっちゅう

「そんなこと常識だろ」

 と言われることを簡単に納得できなかったり、みんなのように何事もすぐに理解できる子ではなかった。

 ただ、これは私にはじまったことではない。

 まさかの、父も変人だった。なんや、メンやば遺伝かよ!

 私がまだ十代前半だっただろうか。

 父が運転する車に乗り、駅まで送ってもらっているときのこと。父はこんなことを口走ってきた。

「時間とは、人間が発見したものだろ」

「(突然やな)うん」

「じゃあさ、時間は人間だけのものかな」

「いや、ちゃうで。犬とか猫もごはんや散歩の時間はきちっと覚えとるで」

「そうだな」

「……(知ってるやん)」

「じゃあ、金属などは感覚がないから、時間とは無関係かな」

「鉄ってめっちゃ錆びるやん。岩も風や水で削られるし」

「うんうん」

 頷いたあと、なぜかハンドルを握ったまま、遠い目をする父。

 いやいや、おとん、前見ろや。運転に集中しろ。

「じゃあさ、もし仮に決して劣化しない金属のキューブがあったとして。ある日空き地でそれを見つけたとしよう」

「ほう」

「で、そのキューブはいったいいつから存在したのか。どれだけの時間を過ごしてきたのか、あるいは見つけたのと同時にそこに出現したのか。キューブにとっての時間は存在するのか」

「……(なにゆうてんねん)」腕を組み、考えるふりをする私。実際は完全に思考停止状態だ。

「いやね、つまり。まったく変化が起きないものに囲まれていたら、どのようにして時間の流れを『知る』ことができるのかって話。どう思う?」

 ええー、いきりどないしてん、とツッコミを入れたくなるが、いや、入れるのはもう飽き飽きするくらいに、こんな話ばかりしてくる人だった。父は。

 満天の星を見上げては、

「宇宙はな、放射能だらけの死の世界なんだよ。なのに、なぜ人は宇宙にロマンを感じるのか。ロケットを飛ばす前に、自分たちが生まれたこの奇跡だらけの星を維持することにロマンを抱かないのは、なぜだろう」

 とか

「ルイセンコの庭(ライ麦が小麦に自発的になるというルイセンコの学説を父はこう呼んでいた)は、彼一人ではつくれない。ではなぜ、人々は彼を信じてしまったのだろう。追放されたくないからではなく、本気で信じたい人もいたのはなぜか」

 とにかく、やたらめったらどうでもいいことに疑問を抱く人だった。

 なぜ、なぜ、なぜの連続。めんどくせえなあ。

 そんなわけで、私はいつしか父の「なぜ」を共に考えることをやめ、そうこうしているうちに時はあっという間に流れ、社会人となり、いつしか「なぜ」と思うことから完全に遠ざかってしまっていた。

 だが、なぜだろう。年をとると、この「なぜ」が驚くほどの生きるエネルギーをくれるのだ。

 疑問に思うということは、メンタルヘルスにとても良い影響を与えてくれると今回はじめて知った。なぜ、知ることができたのか。

 それは、素晴らしい発見をくれる「なぜ」の図鑑、『哲学ってなんだろう? 哲学の基本がわかる図鑑』に出会ったからだ。

「哲学」は謎から出発します。なんの謎かといえば、この世界のさまざまなものについての謎です。(…)この本は、(…)謎について過去の哲学者たちが考えたことをヒントに、どんなふうに考えられるかを教えてくれます。

『哲学ってなんだろう?』
(東京書籍)DK社編 山本貴光 訳

 哲学と聞くと、私のような凡人以下の人間には手が負えないもののように思えてしまうが、謎という言葉はどうしても惹かれるし、さらにヒントをくれて教えてもらえるというじゃないか。

 こりゃ、ちょっと覗いてみよう、となるわけだ。しかも何とフルカラーだし、ポップなイラストは見ているだけでも楽しいものだ。

 さてさて、では謎を見てみようじゃないか。

身の回りにあるものが自分の想像の中だけにあるんじゃないかと思ったことはあるかな。例えば、ある朝、とても現実っぽい夢から目覚めたとする。

同上

 階段を踏み外し、転げ落ちそうになってビクッと起き上がる。「はあ夢だったか」。こんな経験(ジャーキングと呼ばれる痙攣)を起こしたことがある人は少なくないだろう。あれは、実際体が動いてしまうことも相俟って、一瞬本当に階段を踏み外したのではないかという錯覚が起きる。でも現実は、階段から落ちてなんかいない──本当に? 

 ファンタジーアニメなどにあるように、階段を踏み外して落下したら、全く別の場所にいた、なんてことはないだろうか。落下した先が、電車だったり、教室だったり、ベッドだったり。そんなことは絶対にあり得ないのだろうか。絶対に階段の方が夢だと、断言できるのだろうか。

君ならどう考える?
・本当に起きたことだと思ったら夢だった、という経験はあるかな。
・夢を見ているとき、現実じゃないと気がつくことはあるだろうか。例えば、鳥みたいに飛んでいるとか。

同上

 夢の中で、「ああこれは夢だから現実ではないんだ」と気づくこと、これを明晰夢という。だが、このような状態にいつもあるわけではない。夢なのに、例えばゾンビから必死で逃げるとか、好きな人と一緒にデートをして心から幸せな気分になるとか、夢なのに、冷静になれないときもあるはずだ。

 ところで、あなたが酷い悪夢にうなされたとして。起きたときには、寝汗で額もパジャマもぐっしょりと濡れて、疲労感すら感じていたとしよう。

 ここで、あなたはどう思うだろう。

①ああ、こんな酷い夢をみて、最悪な朝だ。今日は一日縁起が悪いのではないだろうか。朝から気分が重いな。

②ああ、こんな酷いことが夢で本当によかった。今日一日無事に過ごせたら、それだけで感謝しようか。

 さて、あなたはどちらだろうか。もちろん、どちらでもない答えも無数にあるだろう。同じ経験をしたとしても。

 そう。良かったとか悪かったとか、幸せとか不幸とか、いったいこれは何なのだろう。

プレゼントをもらうとか、友だちと過ごすとか、ちょっとしたことで幸せになる。でも、そうした出来事がもたらす幸せは、すぐどこかへ消えてしまう。幸せが長く続くための秘訣はなんだろう。

同上

 幸せとは何だろう。本書には、ソクラテスやプラトンをはじめ、エピクロスなどさまざまな哲学者の幸せを提示し、私たちに考えさせてくれる。

 あなたにとって幸せとは何だろう。そして、その幸せな状態を継続するためには、自分がどのような状態でいるべきなのだろう。さらに、その状態をつくる(あるいは維持する)ためには、自分がどう考えたら良いのか──。

 もう自分は悪夢を見るような人間になったから駄目だと思い自分の中に籠るのか、悪夢を見ないようにラバージの『明晰夢──夢の技法』でも読んでみるかと本屋や図書館に出かけてみるのか。

 なんて、「なぜ」について考えていたら、何もせずに放棄してただ落ち込むだけ、なんて状態がもったいないような気はしてこないだろうか。

 え、しない、ですって。

 そうか、だったら私の拙い説明なんかではなく、実際に『哲学ってなんだろう?』を手にとって読んでみてほしい。

 鬱々としている時間なんてない。この世界は「なぜ!?」と聞きたくなるような謎で満ちているのだから。


■書籍データ
『哲学ってなんだろう?哲学の基本がわかる図鑑』(東京書籍)
 D K社 編 山本貴光 訳
 難易度★☆☆☆☆ 子供でも読めるよう、それぞれの文章は短めに分かりやすく、かつ疑問について考える余白は残してくれている。人生の必読書。 

 哲学をここまで「童心」に変えるくらい楽しめる書籍は稀有である。断言してもいいが、これは名著。老若男女問わず、本書で読書会をしたら、いったいどんな意見が飛び交うのか。十把一絡げではなく、十人十色を楽しめる余白(つまり「こうあるべきだという押し付けは一切ない)を楽しませてくれる。私は友達の子供にさっそくプレゼントさせてもらったのだが、小学生くらいから本書と出会えたら、どれだけ思慮深い子になれるのだろう。ちなみに、自分のようなすっかり生きる気力が衰えた人間にも、最高の「問い」を本書はくれた。

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