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『博士と狂人』(早川書房)サイモン・ウィンチェスター 著 鈴木主税 訳

 狂人

 たった二文字でこの破壊力、なんて言葉だ狂人よ。

 さて、みなさんは狂人という言葉にどんなイメージを持っているだろう。

 私は、まず懸梁錐股《けんりょうすいこ》という言葉を思い出す。

 中国 戦国時代の策士である蘇秦《そしん》は、勉強中に襲ってくる眠気に打ち勝つため、自分の足を錐でぶっ刺したというじゃないか。

 え、ええ……。

 例えば、授業中。隣の席に座る子が、ぐっさぐっさ自分の足を刺しているとしよう。

「せんせー、席替えを希望しまーす」

 もうこれ以外、手はないだろう。

 という訳で、今日は読書をしながら「やばいやばいやばい」と連呼出来る、知を愛する狂人の話を紹介させて欲しい。

 それは『オックスフォード英語大辞典』誕生秘話を書いたノンフィクション小説『博士と狂人』だ。

 四一万語以上を収録する辞典制作と聞けば、博士と呼ばれる人の存在が必要なのは理解出来る。

 が、しかし、狂人とはなんだ。

 なぜにその様な人物の存在が、辞書編纂者の中に必要なのだ! しかも重要な存在となるというのだから、もうこれは、読むしかないだろう。

  時は一八九六年。オックスフォード英語大辞典の編纂主幹をつとめたマレー博士は、ある人物へ会いに汽車へ乗っていた。その人物とは、辞典作成中に重要な役割を果たしてくれた篤志協力者だ。

 マレー博士は、辞典作成の際に篤志協力者を募っていた。そうでもしないと、とても完成など出来ないからだ。その際、八ページにもなる「訴え」という冊子を刷り、書店などで配布してもらっていた。「訴え」には辞書作成の現在の進捗状況、それから協力者となって貰う人々へ仕事内容の説明が極めて率直な言葉で書かれていた。

 運命的な出会いとも言える状況で「訴え」を手に取ったある男は、マレー博士による知的な要求に応じるため、床から天井に届く自室の書棚を背に、熱意をもって手紙を書き始める。

 希望など無い世界に閉じ篭っていた男は、辞書作成という価値ある仕事と出会い、自尊心を取り戻せるチャンスを貰うのだ。

 そこからマレー博士と彼の、辞書が繋ぐ物語が始まるのだが──その男には大きな秘密があった。

 事実は小説よりも奇なりとは、まさにこのこと。これがノンフィクションというのだから、世の中何が起きるのか分からないものだ。

 特に本書は、淡々と事実を記録的に書き連ねているのではなく、文章構成がとてもドラマチックになっている。そのため続きが気になってしまい、それなりに厚みがあるのだがさくさく読めてしまうのだ。

 因みに、この『博士と狂人』は本日から映画公開となっている。映画は小説と視点を変えているらしいので、小説で予備知識を入れてから見に行くのも良いかもしれない。

 とは言ったものの、実はまだ映画は見ていないのである。ただ、予告動画は見た。見てしまった。

 いやぁ、あれはずるい。結末を知っているのにこんなにも高揚させられるとは。これは映画も絶対見に行くぞ。

 辞書が無い世界など、今となっては想像も出来ないが、その当たり前のものが作られる時、決して常識では考えられない様な物語が生まれているのである。

 さぁ、非現実的な真実の物語にあなたも出会ってみませんか。

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