ヴァカレリハ・リチティカーナ 〜「文化の中庭」という酒場についてのちょっとした考察
阿佐ヶ谷で酒場を始めて、もうじき5年と4ヶ月。
〝知る人ぞ知る〟と言えば聞こえはいいがいわゆる繁盛店でもなく、咲かずか咲かせてかは知らず相変わらずの青息吐息。
とまれ5年以上も——しかもこのコロナ禍の頃中——においてもなんとか保《も》っているのは奇跡というか『浪漫社』を愛してくださるお客様がたのお蔭であろうと、心より感謝している。
いつも、ありがとうございます。
で、開店よりこちら店のキャッチフレーズも五里霧中暗中模索の中で「夢と魔法の酒場」とか「懐かしい音楽と本と楽しいおしゃべり」等々色々と紆余曲折があったのだが、開店して2年ほど経ってから、
「文化の中庭」
じゃあるまいかとママとマスター(俺)との間で気づくものがあり、以降、これに落ち着いている。
もちろんそれまでの2年を経て作ってきた/作られてきた店の雰囲気からものでもあるが、根底には2つの意味がある。いわゆる、ダブル・ミーニング。
1つは〝広場〟とは言えないウチの狭い空間に三々五々皆さんが集まってご自身の趣味や好きなことたちを自由闊達に喋る空間であること。
そしてもう1つは、ママと俺の母校である、かつて御茶ノ水の駿河台はマロニエ通りにあった、
『文化学院』
の、当時の中庭の雰囲気の再現を目指したいということだ。
当時からよく我らが母校は今もかの「文化服装学院」と勘違いされたものだが、それとは遠からずとはいえ大きく異るもので、大正10年/1921年創立の「大正自由教育運動」の嚆矢として同年設立の『自由学園』(羽仁もと子創立)と並び称される歴史的教育機関だった。
まあこの辺りのことはちょっとググるなりすればいくらでも知ることが出来るのでここで多くは語らない。
が、ママと俺が在籍していた1980年代前半/昭和末期当時はまだその創立時の理想がかろうじて残っていた頃で、俺なんぞはその〝自由〟に甘えてほとんど授業にも出ずその小さな学舎のコロッセウムのような階段のある中庭で、同庭の自販機のコーヒーなどを手に、前後左右四方斜めに男女問わずありおりはべりいまそかりのまにまに囲まれて愚にもつかないハナシで日々を過ごしていたものだった。
楽しかったね。
折しもちょうど昨今言うところのオタク文化が勃興し始めた頃であり、俺はそういうモンも大好きだったいっぽうでドストエフスキイとかマラルメとかにもハマっていたり、あるいは音楽に詳しい同級生たちがそうしたハナシや演奏などもしたり、役者を目指す連中がいたりと文化・芸術ありとあらゆるものたちが、花開いた時期と空間だった。
俺が後年、安土・桃山や元禄あるいは文化・文政時代そしてもちろん19世紀末芸術やシリコンバレーなどにドハマリしていく萌芽が、あの駿河台の小さな空間から生まれたのかともまた思う。
例によって前段が長くなっているが、さてこの緊急事態ナントカを受けて限定的営業をしている我らが浪漫社だが、それでも数はそう多くなれどもお高いご料金を支払ってでもわざわざ予約してお越しくださるお客様がたが少なくない。
それはたぶん他の酒場では出来ない、浪漫社ならではの理知的な対話を望まれているからないんだろうなと、奢《おご》りではなく思う。
(ついでに言えばウチはそうしたお客様がたに対して、ママも俺も優しく誠心誠意なのだろう。あえて、謙遜はしないぞ)
ウチもバカではない。
こういうご時世に不特定多数に門戸を開き、どーでもいー飛沫拡散のハナシに愛想で付き合い収入を得てナンボというのは、それぞれの店の事情はあるだろうがウチは避けたいところだ。
このことは酒場としての経営云々だけではなく、この事態をなんとかするためにも必要だと思うし、だからこそお越しくださるお客様とは理知的な対話を希求する。
ナントカ事態宣言が明けたから一気にナンデモカンデモ開かれるのではなく、もちろん店としての収益は肝心だが、こうした精神《スピリッツ》もまた重要だろうなと思い、いろいろと角は立つかもしれんが綴った次第だ。
とまれ「もう、たいへんなんすから」(初代三平)
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