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noteで人を見送るのはやっぱり寂しく、自分を振り返り、反省と後悔と申し訳なさとでいっぱいになる

 立て続けにnoteやめる人、離れていった人を知った。
 その人の気持ちはその人にしかわからない。人にはそれぞれの気持ちだけじゃなくて生活もある。わかっていても、一人いなくなるだけで気分が落ちこむのを奮い立たせるのに少し時間が必要。何人もとなると動揺が激しい。

 もうすぐここにいて5年になる。もっと長い人もおられるけど、5年はきっと長い方に分けられるのだろう。

 始めた記念の9月頃に書こうと思っていたけど、今回のことを機会にnoteを振り返りたい。

 昔の私をご存知の私は今はとても少ないけれど、離れてしまった人が最近の私の投稿やコメントのやり取りを読んだら、鼻白むような気持ちになるかもしれない。
 きっと最近読んで下さっている方たちは、2~3年前のひどく無礼な私の姿をご存知ないだろう。

 始めた当初はきっと多くの人が戸惑うように、「スキ」に驚いた。
 自分のおさめていられない思いを書き綴ろう、映画の感想を記録として書こう、と思っていただけなのに、意外と人の目に触れるんだ。ちゃんと書かなくちゃ。

 そこから何度も「~しなくちゃ」の思いに、3年近く自ら振り回されてしまった。特に「みんなとうまく付き合わなくちゃ」。そしてそんなのはできない私なのだ。

 年月の数字に関してはざっくりの記憶だけど、最初の2年くらいは、ここで人と知り合える喜びと、元来の人なつこさでたくさんの人にすごく気軽に近づいた。Twitterともつなげて皆と交流したかった。今までにはない人間関係に浮かれてしまい、受けいれられたと思いこんだ私は、多くの皆のことが大好きになって勝手に温度が上がってしまったのだろう。非常に遅ればせながら、しばらくして人々はそんなに自分に関心がないのだと気づいて、どうしたら良いのかわからなくなった。
 Twitterでつながっていても、noteとはまた違った面を見たり、noteのコメント欄とのやり取りとは区別していたり。自分のことは棚に上げて感情の持って行き方がわからず、一度目の「フォローをたくさん外す」をやってしまった。

 それまではかなり気軽に、一人ひとりをフォローしたり外したりしていた。関心持ってくださるのねと思ったら気軽にフォローし、それでもちょっとその人のエネルギーとのバランスが取れないな、疲れちゃいそうだなと思ったら外していた。でも嫌いになったとかじゃないから、時々気持ちが安定している時に読みにいく。
 その行為が失礼で、相手にとってイヤかもしれないと、他の方たちの投稿でなんとなく気が付く。それであまり頻繁にはそういうのを繰り返さないようにした。でもそうするとそれまで気軽にフォローした人たちとのやり取りで苦しい思いが積もっていき、ある日突然たくさんの人から離れてしまう。
 これを3年間くらいで3度ほど繰り返してしまった。

 私はSNSとの付き合い方がとことんわかっていなかった。本当は今も距離感がよくわかったわけではないのだけど。

 真面目に考えすぎて融通がきかないし、そうしなくて良いよと言われても全力で向き合ってしまう。フォローしておきながら故意にずーっと読まないとかも、むしろストレスになってきてできないのだ。
 自分のフォローしているものを全部追う必要ないとかわかっていても、気質柄それができず、できるだけ心が揺らぎすぎない画面を見ていたい。そして読む方の個性や日々の出来事などできるだけ追いたいのだ。
 長くフォローし合っている人は「また後でそのうちに」と甘えてしまう場合もよくあるけれど。

 今も時々、心が揺さぶられ過ぎて読み続けられないな、疲れちゃいそうだなと思ったら外す。でもしんどいなと思っているだけなので、元気な時に読みに行くこともある。
 ただ読む以上にフォローを重視している方も少なくないとわかったので、できるだけそれを回避すべくフォロー自体をできるだけ慎重にしている。

 1年目は気軽に何人もフォローしたり外したりを繰り返し、愛着が湧いた2~3年目には、そうやって急にフォローを大量に外してしまう、という風に自分の気質を露呈させていた。
 彼ら彼女らに本当にイヤな思いをさせたと思う一方、私のことなど気にかけていないだろうとも思う。ただ、コメント欄で距離感つめて何度も話しかけたのは私の方からなので、なんだよという思いがあった人もきっとあったはず。
 ここ2年くらいは当たり前に気をつけているけど当時は、記事で誰かの言葉尻をとらえて細かなことも書いていた。イタイ私でもあったし、それで誰かを傷つけたことは後悔と反省と罪悪感、恥ずかしさで時々頭がいっぱいになってしまう。すごくすごく申し訳なかった。

 コメントに関しては、その投稿に対して心動かされると、自分の中におさめられなくて感傷的に書いてしまい、そういうのもコントロールするべきだった。今も時々コントロールできなくて、わあーと思いを書いてしまうことがあるけど、なるべく相手を考えるようにはしている。時々書き過ぎるけど。

 3年目を超えた辺りで、人はそれほど自分に関心がないことと失礼のないようにしなくちゃということ、あと皆もそれぞれに自分の載せるものや交流に葛藤を抱えているのを知った。
 私も自分で自分を落ち着かせなくちゃと言い聞かせた。

 noteで人と関わる時の私は、リアルでの私と少しちがって、感情のまますぎるのだよね。

 落ち着かせようと努力はしたけれど、ワイワイ賑やかだったり、その人を取り巻く世界に入れない自分に気付いたりした時にも、疲弊してしまう自分もいる。
 それも以前から、できるだけそこに入って楽しく私も同じようにしなくちゃの思いが強かった。そこに入れない気持ちがわいてくると、そこで自分が浮いて感じて、いたたまれなくなってくる。しんどいな。と思うとやはりそっとフォローを外して、でも時にはその世界をのぞきには行った。
 その世界からは離れて、でもその人の投稿だけは時々見たかった。元々はその人物やその内容に惹かれたわけなのだから。
 でも気持ちが悪いかもしれないよな。
 とりあえずできるだけフォローを始めない。仕方なくそこに落ち着いている。

 そうやって5年が経とうとしているけれど、自分が作る世界はどうにか自分らしくなってきた。ネットを通じた人との距離感が少しだけわかってきたこともあるし、リアルの世界とは違った感情の出し加減も少しだけわかってきた。どちらも「少しだけ」で、相変わらず不器用すぎる私がいる。

 私は人を信じたい気持ちがあるし、人から信じてもらえるような自分でいたいから、これからも心をこめて誠意を持って一人ひとりと対峙したい。
 みんなが少しでも幸せだとうれしいから、応援する立場でいたい。
 他の方のを読む時、作品を見る時はお邪魔しますの気持ちを忘れないようにしよう。

 そうやって少しずつわかってきた自分の立ち位置だけど、他の人は当たり前に他の人の世界があって、突然やめる人がいる。アカウントごとなくなる。「アカウントは残すけど卒業」の人もいる。更新頻度が減ってきて気が付くと来なくなる人もいる。
 きっと思いはそれぞれにあるだろうから、仕方がないと最終的には割り切るしかないけど、すごく寂しい。
 私はここで何やってるんだろうとつい思う。

 そして時々そういうことを書くと、それほど更新頻度が高くなくても、そういう気持ちを乗り越えてきた、長く相互フォローしている方も同じ思いを抱えていると知る。私もまだ続けようと思い直す。
 毎回自分を奮い立たせる。

 特にここ一年、思っているのは、書きたい思いや弱い気持ちを書けるのはnoteならでは。受け入れてくれる人たちがいる。マウント取ったりどっちが悪いかなんて対立することもない。私自身も誰かと相性が悪いと気が付かされても、誰かとは相性が良い。

 今日も誰かがその人を表現してくれる。誰かがいなくなった寂しい思いはあるけれど、誰かは続けてくれている。

 皆が吹っ切ったり華やかな世界に向いたり、ここからいなくなってしまっても、私はここにいたい。
 そんな気持ちも変化していくのかもしれないけれど、今の私は続ければ続けるほどそんな思いが強くなっていく。私はきっと日常のことや自分の気持ちを書き続ける。

 そして自分がフォローを外されてもスキをつけに来なくなっても、私は好きなら時々思い出して読みに行く。それでも訪れてくれなくなったら、きっと私の魅力のなさに気付いてしまったり、note上では相性の良くない人だったりなのだろう。
 勝手に近づいておいて勝手に離れ、なのに時々読みに行くのは気持ち悪いだろうし。少し様子を見て、それでも来なくなったらきっともうしんどいのかもしれないと遠慮して身を引く。

 今日も皆さんのを読みに行く。お元気かなと楽しみにして。


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