大切な友との今までと、信じているこれから
古くからの友人と、久しぶりに会う喜びに溢れたくまのみさんのnoteを読んで、自分まで楽しみなような嬉しい気分になった。
10年ぶりかあ。すごいなあ。気心知れた者同士なら、あっという間にその当時の時間が戻ってきて、お互いの距離を埋めてくれるだろう。
***
Aちゃんは、中学一年生の時のクラスメイト。
隣りに座っていた子が目が悪いから席を変わってほしいと、前の方に座っていたAちゃんと入れ替わった。そしてAちゃんとあっという間に仲が良くなった。授業中に手紙を回し合い、二人で先生に叱られ、互いに通じる言葉を作っては笑っていた。でもマウンティングに加わりたくないし、本当に親しい者同士でない限り、噂話が嫌いなため、そういうものに巻き込まれたくなくて、彼女の仲良しの座を他の人たちにまかせた。でもクラスが変わっても廊下ですれ違うと、ハイテンションで挨拶を交わし、笑った。
彼女は大学受験したため、少し遠くへ行った。
メールはおろか、ポケベルも私たち世代には浸透しなかった時代、手紙を交わして近況を報告し合った。
しばらく彼女から連絡がないなあと思っていた頃、私たちは自動車教習所でバッタリ会う。彼女は大学を辞めてニュージャージーに語学留学することになっていた。
実はAちゃん、私が幼い頃住んでいたニュージャージーに、同じ時期、住んでいた。当時はお互い知らなかったけれど、割と近い所に。それは中学一年生の時に判明していた。
Aちゃんのお父さんは、その頃もまだニュージャージーでの仕事があったらしく、よく行き来していたと言う。だからその距離を私より近く感じていたようだ。
それからはニュージャージーに住むAちゃんとの文通が始まった。Aちゃんは、筆不精だからと滅多に自分から書かなかったけれど、時々来る手紙には、私と同じように、近況やそれに伴って感じていることをビッシリ書いてくれていた。
その後の私は、ニュージャージーで暮らすならウチへどうぞと知り合いの申し出もあって計画を進めていたが、突然ダメになった。2~3日、何も手につかないくらい打ちのめされていると、Aちゃんが「一緒に住まへん?」と言ってきた。そしてニューヨークでの日本語講師レッスンの送迎も申し出てくれた。
彼女と私の二人暮らしが始まった。
当時、彼女は、語学学校から短大へ行き、その後大学へ通い始める頃。大学ではパソコンが必要だった。まだまだパソコンは家庭に普及していなかった。私の渡米3日後、パソコンを選びについてきた彼が、後の私の夫だ。
Aちゃんは、忙しくて送迎できない時のために、その彼を紹介してくれたのだ。
彼女は世話好きで、自分を犠牲にしてでも人に尽くしてしまうところがある。
しかしAちゃんは大学で常に成績優秀を狙っており、課題や試験で追い詰められていく。それに対し、私は日本語講師の勉強だけだったから、呑気なもの。そばにいるだけで、随分イライラしただろう。私は私で甘えてしまうところがあり、Aちゃんは自分で自分の首を絞めてしまうようになっていき、私たちは、ほんの少しずつ不穏な空気に包まれていった。
そこへ、Aちゃんの体調不良。
検査手術が必要になり、不安がる彼女。そこに私は付き添うことになり、帰りの運転をすることになった。国際免許は持っていたが、危険に思ってずっと運転していなかった。それでもこの役目は私しかいない。
そしてその前に、私はビザの関係で一時帰国しなければならない。
一時帰国する直前の夜。Aちゃんは、パソコンに向かったまま「このまま放っておくと、子供ができないんやって」と言い、泣き出してしまった。まだ人を励ましたり慰めたり、人のあふれだす感情を受け止めきれなかった頃。黙って彼女の背中をさすりながら、私は一緒に涙を流した。
ルームメイトになるには、元々の仲があまり良くない方がうまくいくと言う。仲が良いと「こうするはず」「こう思うはず」とお互いに思ってしまうからだ。線引きがあいまいになってしまう。ドライにルールを決めた方が良い。
無事手術を終え、私たちは以前よりドライな関係を保つように努めた。
それでも時間があると、一緒にコインランドリーに行き、近くのダイナーでコーヒーを飲んで語り合った。
お互いの肩を指圧しながら、話したり、テレビを観て大笑いしたり。
時々お酒を飲んで酔っ払ったし、Aちゃんはドライブに連れて行ってくれた。車の中で大声で歌ったり笑ったりしながら、旅行に出かけたこともあった。
私たちは、中学生の頃のように、下らないことでお腹を抱えて笑い転げた。
Aちゃんが紹介してくれた彼と私との結婚も、心から喜んでくれた。
私の結婚後も、Aちゃんは私の病院での検査には付き合い、二人で主催の小さなホームパーティで、一緒に準備しながら喋ったり笑ったりしたけれど、それ以外でお互いの領域を侵さないようにした。
夫と私が帰国後、Aちゃんは大学を卒業し、札幌にいる私とメールを交わした。ニュージャージーで働きながら、時々ニューヨークでの仕事があった頃、連続テロ事件が起きた。Aちゃんは、働き続けてはいたけれど、心はふさぎこんでいった。
そのうちに、彼女の父親の容体が悪くなり、帰国した。
大会社に勤め始め、海外出張もあり、将来を有望視されていたが、夫となる人と出会い、結婚するために、彼にその会社を辞めさせられた。
以前の手術のことはありながら無事子供も生まれた。
祝福したくてアパートを訪ねたら、彼女の様子が少し違って戸惑った。それでも幸せだと言う彼女を信じていた。
間もなく、Aちゃんから、ダンナさんの相談を受けるようになった。度重なる大喧嘩。家庭内で許されていないこと。ダンナさんの追求する理想や締め付け。繰り返される暴言と家出。
Aちゃんの良い所が奪われていく。私との同居生活でうまくいかなくなった時も、彼女がイライラしていた時も、抱かなかったほどの強い怒りと悲しみの感情がわいた。
Aちゃんの良い所は、色々な物事を本能的に切り離せるところ。割り切って人と向き合えるところ。何故イライラしているのか、何に対して疲れているのか、自分でわかっている。慢性的に悩みを抱えていても、突発的なイヤなことはエネルギーに変えてしまって引きずらない。
私は悩みを抱えておきたくないから、できるだけ解決しようと内省し尽くすけれど、突発的なイヤなことを引きずりやすい。考え方を中心に、色々なことが真逆。
Aちゃんが、自分を犠牲にしちゃうような頑張りをするところはあったけれど、それはこちらだって問題があったのだ。気がついてからは邪魔しないように気を付けた。彼女の自由で強いところをつぶさないようにしたい。下らないことでお腹を抱えて笑いたい。お互いのいい加減なところをツッコミ合って笑いたい。前を向いて歩ける彼女を応援したい。AちゃんがAちゃんでなくなっていくのなんてイヤだ!
……でもそれは私のエゴなのかな。
号泣しながら電話してくる彼女の、そばにいない自分を歯がゆく思った。
数年後、彼女は離婚した。
私のエゴで、ダンナさんを悪く言った? 私が強く言って別れさせた?? 彼女は後悔していない???
Aちゃんからの連絡が途絶えた。
しばらく話したくないのだろう。
そう思って数年。
私たちはようやく会えた。
おそるおそる聞いた。
「私が言い過ぎたんじゃない? 後悔はない?」
「全然! ホンマにラクになったよ。あの頃にはもう戻りたくない。」
穏やかで晴れやかな顔で彼女は言った。
一人娘を養い、自分の母親の面倒を見、仕事をしている彼女は、時間がなくなった。
元々筆不精な彼女は、私とはほとんど連絡しない。それは彼女の悪意や私への嫌悪ではなく、彼女の暮らし方。それを信じ切って私の方からも、滅多に連絡しない。帰省する時に連絡すると、会えるのだし。
過去には札幌にも今の土地にも何度か、顔を見に来てくれた。またきっと彼女と会える。
ここ数年、息子の塾のために(経済的に)気軽に実家に帰ることはできなさそうだし、彼女もまたお母さんや娘さん、仕事のために気軽に遊びに来たりはできないだろうけれど。
それでも私はAちゃんが大好きで、これからも彼女の思い出を胸に、彼女との楽しい会話を待っている。きっとまたゆっくり話せる日がやってくると信じている。
誰と一緒だろうと離れようと、一緒に住もうと遠くに住もうと、私たちは面白い友達同士。
***
くまのみさんのnoteで、たとえ歳月が経っても、お互いを想っていればどれだけ時間が経っても、会って間を埋め合えるのだと励みになった。読みながらAちゃんを思い出した。そして彼女を信じている自分を再確認した。
*ちなみにAちゃんのことを詳細に書いて載せていいかと連絡したら、返事がきました。半年ぶりくらいのメール。近況と共に。とても嬉しかった。
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