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「よく頑張ってきた」かどうかは、自分だとなかなか気付けなくて

 息子が大学生になり、一人暮らしを始め、帰省する度、そして一人暮らしに戻る度、少々戸惑う。生活リズムや自分の気持ちの向け方。いつも順応していくけれど、その変化には毎度、気持ちが揺れやすくなる。私自身についても五十肩はひどかったし、更年期症状は繰り返しあれもこれもやってくるしで、今の心境を母にじっくり話してみた。

 更年期って、PMS(月経前症候群)がしょっちゅう来る感じ。いつ終わるかもわからないし、ありとあらゆる方法で攻めてこられる。身体の症状も辛いけど、精神的なものも負担でなかなかコントロールもできない。


 時々母は言う。「かせみは遠く離れた土地で、親戚もいなくて、たった一人で頑張ってエライわよね」。

 いやいやいや。お母さん、私は一人で頑張ったんじゃないよ。夫が支えてくれたから今の私がいる。たくさん相談に乗ってくれて、山のようにあった愚痴を聞いてくれて、子育てを話し合った。

 友人たちも頼ったし、色んな人と助けあった。特に息子の幼稚園の先生方や中学以降の先生方たちに支えられたものだよ。小学校に通っていた頃だって、アパートにいた人たちや塾の先生、スクールカウンセラーたちのお世話になったんだよ。

 今まで何度もこの会話は交わされた。私は一人で頑張ったわけじゃあないんだもの。

 でも今回ようやく気が付いた。母が言いたいのはそういうことではない。

 「かせみが結婚前の家族形態で言えば、おじいちゃんおばあちゃんと合わせて6人で暮らしていて一番年下。みんなに守られていたのに、私たち両親の手助けもなく、お兄ちゃんの助けもなく、かせみは独り立ちしてから頑張ってきた」と言いたかったんだ。

 言葉選びに注意しないと。今どき言われるかもしれない。以前の私なら気になる言葉尻をとらえてまた反論していただろう。でも今回、母の真意がわかると、簡単に「ああそうか」と腑に落ちた。

 最近はそんな自分が少し好きだ。
 気持ちをハリネズミみたいに、いつでも針を立てられるようにガードしていない。
 たった何年か前まで抱いていた自分の、潔癖で正しくて厳しい部分って、段々疲れていっちゃうんだ。
 R・J・パラシオさんの『ワンダー』にも書いていた。「迷った時は、正しい方より優しい方を選ぼう」っていうような内容の言葉。この考え方だけはずっと好き。
 
 「だってあんなに大変な息子クンだったんだもの。色んなやりにくさと個性とに全力で向き合って。大変だったじゃないの。私たちがすぐに駆け付けられないような場所で、しかも田舎のやり方を通される地域で、ダンナさんの仕事を尊敬しながら、息子クンのために一生懸命やったじゃない。家族一緒に頑張ろうって思ったんだから、えらかったよ。よくやってきたよ」

 母の思いは温かく私の胸に広がって「そうだな。頑張ってきたな私」と思えていった。

 今はしばらく休んだって良いんだよ。更年期の症状が大変なんだし何もしなくても罪悪感なんて背負わなくて良い。最低限、自分の思うところだけやったら、時間が余ったって焦ることない。ゆっくり好きなように自分の時間を過ごしたって良いよ。

 その日の母との会話は多くの実りがあった。70代後半の母の言葉は、軽快でありながら深みを感じられるものだった。

 この日、リモートを終えてから、「頑張ったんだなあ私。まずは大仕事の一つが一段落してるんだ」と余韻に浸った。「あのくらいは頑張っていないと」「もっともっとやらなくちゃ私」そんな思いにかきたてられないで良いんだ。
 子供が手を離れ始めると、どうも肩の荷が下りた実感がないのか、それとも下ろしたくないのか、切り換えにくい自分を知る。
 母とゆっくり話した数日後、息子の幼少期を振り返りたくて以前のブログを読み返していた。

 すると幼少期にさかのぼる前の小学校卒業の頃の文章が出てきて。
 今よりずっと実感を伴ったもので生々しい。

 おかしな箇所だけ、少し修正を加えつつ、ほぼそのまま載せたい。

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 とうとう息子が小学校を卒業した。このブログを始めた頃は、まだ喋るのもおぼつかない頃だった。
 息子の六年間を振り返ってみる。
 私の帰国子女からくる辛さがよみがえって、全然太刀打ちできなかった。でもたくさんの人に支えられた。意外と周りの母親友達は受け入れてくれるとも知った。気持ちに余裕のある心の広い人たちが私と友人関係を続けてくれたのかもしれない。本当にありがたい。無理に乗り越えるよりも、息子に何かあった時に、相応の対処をするよう心を砕いた。
・一年生の時から宿題を一人で済ませていた。幼稚園の時と同じように、本人は無意識で緊張して帰ってきて、帰ってからストレスを発散するように毎日大泣きした。宿題を見守り、ほんの一言の間違いの指摘で、いちいちひっくり返って泣く。話し合うと「宿題を見ないで良い」と言われて、早々に宿題を見守ることはできなくなった。(そうは言っても、中学一年生の後半くらいまで大声で音読の宿題をする日もあって微笑ましかったです)
・二年生の終わり、大地震に遭った。それからというもの、緊張する場面に遭った後にリラックスすると吐く癖がついてしまい、しばらく毎週末が大変だった。
・三年生の時は、毎日机のある部屋にこもって、宿題がいやだと教科書を投げつけながら大号泣していた。
・四年生の時に引っ越した。私も片付けのストレスでイライラしてしまい、息子を叱ることが増えて、息子も機嫌が悪いと足を踏み鳴らし大声で文句や不満を表していた。
・五年生の時。クラス替えがあったが、そのクラスの雰囲気が悪く、暴力を振るう子がいた。時には他のお母さん方や夫と一緒に、先生と話し合いに行った。何度も足を運び電話でも話したが、決着はつかなかった。特に息子以外の子たちへの被害についてうやむやにされた。当人たちが言ってこないのだからそれで良いじゃないかと校長先生にも言われた。
・六年生になってからは塾に通った。行事が好きではなかったのに真面目にこなし、でも楽しいと思ったことは詳細に話してくれた。息子の希望する中学に行くために、学校でも頑張っていたようだ。

 辛くなったら幼稚園時代の友人や私の両親に会うために休みを取った日もある。
 毎学年、何かしら事が起きて、母親として心穏やかに過ごせた年は一度もなかった。
 私たちが得たものは、「辛い時に協力を求められる」周りへの信頼感と、どんな時にどの程度周りに助けを求めるか、先生に話しに行くかの判断ができるようになっていったこと。あとは息子の周りの友人たちと気軽に話せるようになったことだ。


 卒業式前日。
 息子は「イヤなことあってもやっぱり楽しかった」「まだ大人になりたくない」と言いながら泣き出した。
 当日も息子は皆で歌いながら、顔をクシャクシャにしながら泣くのを我慢していた。
 私の方は、卒園式の時は先生とのお別れで号泣したけど、今回はなさそうだなあー。と思っていたのだけど。

 その瞬間は唐突にやってきた。
 式が終わると生徒たちが席から立ちあがり、保護者のいる後ろの席に向かって歩き、角を曲がり、目の前を横切って体育館を出る。その角の辺りにいた私は皆の顔が正面で見えた。
 幼稚園から知っている子たち。小学校一年生から見守ってきた子たちも。強烈な個性の我が子を慕ってくれて受け入れてくれた子たち。遊んでくれた子たち。
 イヤなことを息子に言ってきた子たちが多かった時期でも決してそれに加わらなかった子たち。加わってしまったけど私が話しに行くと泣き出した子たち。

 当時の私、よくあんな風に話し合いに教室行って、一人ひとりに声かけたものよ。

 前のアパートの下校時も、引っ越してからの下校時も、それぞれに仲良くしてくれた子たち。

 ずっと見てきた子たちが次々と胸を張り、でも目を赤くして歩いているのを見て、胸がいっぱいになった。
 みんな立派になった。
 
 やっとこの学校から卒業。本当によく頑張ったよ。おめでとう!!

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 この記録は、私へのおめでとうでもあったな。
 本当によく頑張った。
 あの後から、早かったなあ。
 もう一人で暮らしちゃってさあ。涙も長い間見せてくれないよねえ。

 お母さんは、自分の母親に今も話を聞いてもらっているよ。まあでもたくさんの母娘間の葛藤も超えたからね。互いに素直に話せるようになったのなんて最近かもしれない。そんな時期も超えて50歳にもなって「頑張ったね」って言ってもらっているよ。私も50歳の息子に「よく頑張ってるよ」って言えるような母親でいたい。そのために自分が楽しく生きる背中を見せ続けないとね。まずは更年期を少しずつ乗り越えていこう。


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読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。