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そう言えば励ますのが下手だったし、上手じゃなくたって良いけれど

 息子が膝を抱えて、自分の不安や苦しみを訴えていた。なんと言葉をかけて良いかわからなくて、「ギュ」と言いながら抱きしめようとしたら「こういう時、母さんはギュって抱きしめるだけだよね。そんなことしたって何の解決にもならないんだよ」と言う。
 その言葉を聞いて喉の奥が詰まり、息苦しくなってきたところで目がさめた。

 ここ半年くらい、夢見が悪くて起きたら悲しいとかイヤな気分になる朝が多い。

 ただ今回のそれは、最近気になった映像が影響しているのだろうなあと心当たりがある。

 ちょっと前にテレビ番組で、大好きなことに対して全力で頑張る小学生の女の子が映っていた。発表しなければならない直前に、プレッシャーから、お母さんにしがみついて泣いている。
 そのお母さんがかける言葉を聞きながら、私は息子にそんなふうに言葉をかけることができたかなあと振り返ってしまった。

 周りの人に寄り添いたい気持ちって、うまく伝えられない。気持ちの精一杯って伝わっているだろうか。言葉を尽くしても人を思う気持ちは、その全部を、その質量みたいなものを、伝えきれない。もっと思いはあるのに私は足りない。と、もどかしい。

 ずっとずっと、自分が励まし下手だと感じていたと思い出した。

 物心ついた小さな頃から、そばで泣いている子の横で、私は何の言葉もかけられない子だった。
 周りの、特に女の子たちの中にはその辺りが上手な子がいて、泣いている子のそばで声をかけている。今どき、下手に声かけてその子の気持ちを知った気になるんじゃないとか言われるかもしれない。でもそれより「なにか」が頭に浮かんでくる自体が、私にはうらやましかった。

 気質的なものなのだろうけど、私は泣いている子の気持ちに寄り添い過ぎて、いっしょに泣きたくなる。そうでなければ、本当に泣いているわけではない子の泣き声も感じると、声をかける気を失くしてしまう。どちらにしたって私は言葉が出ない気転のきかないタイプなのだ。
 それは大きくなるにつれ、私の中で少しずつ劣等感としてついて回るようになっていた。
 大学生になってももちろん。
 駅の改札口近くで、友人と二人でもう一人の友人を待っていた時。小学校低学年くらいの子がキョロキョロしたかと思うと、涙を流しながら親を呼んでいる。
 「見つからないんかな」「迷子みたいやね」二人で話しながら近づいたけど、近づくにつれてその子の気持ちを強く感じて、涙が出てきてしまった。私が一緒に泣いているなんておかしいから、グッとこらえその子の目の前に行く。でも何と言って良いのかわからない。
 「どうしたん? お母さんは?」彼女の呼んでいる「ママ」だったか「お母さん」だったかで察している友達が声をかけた。ちゃんと座って彼女の目線に高さを合わせている。
 「いないん? 困っちゃったね。駅の人に言おうか」と言いながらキョロキョロしたら、お母さんがやってきて一件落着。
 私はただ涙を浮かべてそばで立ち尽くすだけだった。私って、まだこんなんなのか。ダメだなあ。と自分にガッカリ。そばで泣いている子に何も言ってあげられない。
 その場しのぎだって良いんだ。その子がほんの数センチでも顔を上げられるようになるような言葉を。

 まだまだその時期は続き、20代半ば。
 親友と暮らしていたある日。彼女が体の不安を訴えて泣きだした。ルームシェアをしていて、互いの関係がギスギスぎこちないものになっていっていたところだったけど、自然と手が彼女の背中をさすっていた。
 やっぱり何も言葉は出なくて、私は涙を流すだけだった。
 ただその時、彼女の態度を見て、感情を感じて、それでも良いんだと初めて思えた。

 彼女の紹介してくれた、夫となる彼は、私が泣いても何か言葉をかけるわけでも特別優しくしてくれるわけでもなかった。ケンカの時は涙が落ち着いたら話し合ってくれたけど、それ以外の時は何も言わない。だけど私はそれで充分気持ちが落ち着いた。

 だから子供ができて泣き止まなくても、自分が上手な言葉をかけられなくても、そんなのどうでもよくなった。
 気が付いたら私は泣いている息子にあれやこれやと励ましにもならない言葉をかけ、その場しのぎでうるさいくらいになっていた。

 ちっちゃな息子は私のうわすべりした言葉など聞かず、ひとしきり泣くと気が済んで「まみだ(涙)、ふきふきして」と言っていた。私とケンカした後でさえ言うから、まだ腹が立っている私は「甘えないでよ」とイライラしつつも少し雑に拭いたり、そのかわいい言葉で頬がゆるんだりした。
 そして成長するにつれて、いつの間にか「そういう意味じゃない」「そう言ってほしいんじゃない」と言われるようになってしまった。

 落ち込んだり悲しんだりしている時、人は励ましの言葉が欲しいのだろうか。
 その状態の自分から、変化して成長したいのだろうか。
 その時に誰かに指南されたり鼓舞してもらったり、慰められたりする言葉を欲しているのだろうか。
 それともただただ黙ってそばにいてほしいだけなのだろうか。

 うまく伝えられない時の自分も含めて考えてみるとやっぱりよくわからない。伝えきれないもどかしさで、すぐ自分がイヤになる。

 ただ息子の態度や周りの反応を見ていて何となく思う。きっと話を聴いてから、「こうすれば良い」対処を正解として自分の中に持たない方が良いんだろうな。

 言葉で励ませない自分をダメに思わないで良いし、黙って寄りそうからそれが良いわけでもない。
 心を受け止めているかどうかを、相手が実感できるかどうかなんだ。励ましの言葉を気軽にかけたり、相手が悲しいと言っているのに「楽しいこと考えろ」みたいに言ったりするのって、相手を受け止めていない。そのように感じている気持ちを否定しちゃっているんだよな。
 うまく言葉をかけられなくても良いよ。受け止めようって気持ちは、きっと伝わる。と信じる。

 だから夢の中の息子は、ギュッとすればそれで良いと思っている私にそう言ったんだ。

 でも夢の世界は自分の脳内で描いている出来事。息子はそんなこと言っていないし、そう思っていたとしても深刻にそうは思わないタイプだろう。そんな風に思う時もあるだろうけれどね。
 私がきっと勝手に気にしているからこんな夢を見る。

 私は人に思いの丈を伝え、励ましてこれただろうか。
 息子を今でも元気づけられることはあるかな。


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子どもに教えられたこと

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