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茶書をよむ 江戸時代の教養-弘道館留学

しゃちょーの弘道館留学その3 茶書をよむだけなんて地味じゃない?と侮るなかれ。すっごいおもしろかったので一部だけをレポートしたいと思います。内容は、山上宗二(Wiki)をよむ勉強会。弘道館の江戸時代の教養を考える講座を構成する1つです。山上宗二記は天正16年(1588年)(天正14年執筆という説のほうが濃厚)に執筆された茶道具の記録書です430年前の書籍で、道具の一覧と来歴が書かれているもの、だそうです(まだよくわかってない)

今回、1時間半かけて読んだのは、臺子四莊之事(だいすよつかざり)についてのたった10行程度。漢字の変換もこれで正しいかわかりませんが…なんせ初めてのことなので、そんなこともわからず、とにかく新しいこと(でも400年前の古いこと)を学んでおります。

1時間30分で10行しか読まない、なんて、退屈かと思うかもしれませんが(参加する前は、わたしもどんなものか全然わからなかったわけですが)受けた結果は、めちゃくちゃおもしろい。10行に含まれているものは、津田宗達が持っていた茶道具の目録と少しのコメントが書かれています。そこから当時の背景なども含めて想像していくわけです。

[引用] 上記Tweet、及びまんが「へうげもの」

天正10年に本能寺の変が起こり、その4年後は秀吉の時代。天正14年は茶の湯ではエポックメイキングな年だとも捉えられているようです。というのは、利休が佗茶へ遷移していく時期だそうです。山上宗二のこの記録は、秀吉時代の情報がフラットに記載されていると、この会では解釈されていました。秀吉没後の茶記になると、勝者の歴史として多少書き換えられ(実際に持ち主も変わっているでしょうが)秀吉時代の情報ではなくなっているだろう、ということです。(その茶記がどなたのものかは忘れちゃいました…。すみません。情報量が多いんです、弘道館の講義って…)

今回読んだところに「平釜」という言葉が出てきます。ものすごく簡単にいうと、釜は茶会のときにお茶を淹れるためのお湯を湧かす道具です(あまりにも当たり前でわかっとるわ!って感じでしょうか)で、平釜は上の絵のようなかたちで、言葉の通り平べったいものです。そしてお茶道具にもはやりすたりがあって、この平釜は流行らなくなってきます。佗茶の茶室になっていく前は、別室で茶を点てて、お客様に持っていくということも多かったようで、そうすると道具の大きさはあまり問題になりません。しかし、利休の佗茶に変わっていくと、まず「茶室」の中で、お茶を点てて、お客さんも同じ部屋でお茶を飲むということになります。四畳半の茶室などになったとしても別室でやるよりはスペースを効率よく使う必要がでてきますので、大きな平釜が避けられる傾向になっていくのでは、と想定しています。極端に小さい「待庵(Wiki)」のようにたって二畳しかない茶室などが登場しますと、さらに道具立てはシビアになるのは、想像に難くありません。

[引用]上記Tweet 「建築の日本展」における「待庵」原寸(1:1)模型

あと、この平釜の価格は「代百貫」とあります。百貫という金額は、簡単にいうと「かなりの高級品」と考えるのがよいだろうという解釈でした。貫という金額の単位は、当時の米の価格を推定しての算出方法もあるということなのですが、当時の米の価値は、いまの価値よりも高いだろうし、そうなると相対的な根拠に乏しいということですね。私がいくつかウェブで検索した感じだと、1000万〜1億円くらいの幅がありそうです。まぁそんなレベルで高いもの、という風に考えればよさそうです。

などと、私が、今日ここにnoteで書いた内容は「たった1行」の内容についてですが、それだけでも、時代背景や当時関わっていた人、茶の湯の背景などを考えると、たった1行でこの日も30分くらい話したかもしれません。

茶書をよむ、といっても、そういうサイドストーリーがとても大切になるわけです。よむ、というより、読み解く。だからこのサイドストーリーこそが本編とも言えます。

最後に、別件。今回の勉強会で進行・指導をされた山本さん(山本先生)は、元々は弘道館講座の受講生だったそうです。講座を受けて、さらに自分で調べるのも非常に好きで、指導をする立場にまで成長されたとか。弘道館留学の大先輩です。わたしが弘道館の講座を真正面から教えられるようになるには相当時間がかかりそうですが、学びのひとつの成果であり、意義だなと思います。


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