見出し画像

「はじめての出版12〜明日に向かって脱けろ」

2021年。去ったばかりのその年を思う時、
まるで霧のかかった深い沼地を歩いているような気分になる。

足を取られ、抜こうとしても抜こうとしても黒い泥が纏わり付いてくるような…。

年明けから1ヶ月ごとに締め切りを区切る形で、完全原稿の執筆が始まりました。相変わらずの遅筆に加えて、急回復に向かう世界の中で仕事もだんだん忙しくなってきました。

さらに、組織的に大きな失望を受ける事態も発生しました。
ここでは語れないのですが、一言で言えば「アイディンティティの喪失」でした。不思議なものでそういった辛い出来事が起こるとき、いつも僕には何か救いのような、一縷の望みのようなものがかろうじて残されていて、
それがこの書籍の執筆だったりしました。

毎回、締め切り日の深夜、というか早朝(つまり一日遅れ)での原稿の提出。書きやすい章はまだいいが、過去の事実や歴史的な記述が出てくる章は、調べながらの執筆でこれが本当に大変でした。
あまりにたいへんなので、

「すいません、歴史的事実などを書くときの正式な文献を調べようとすると、それだけで図書館に行ったり膨大な時間がかかってしまいます。
これは年内は無理では…」

と意を決して泣きの一言を入れました。
すると、編集長は信じられないことを言ったのです。

「あ、ある程度調べていただければ最終的に編集部と、校閲会社さんの方で事実確認はしますよ。お気になさらないで進めてください」

え?ええー?なんだその仕組み!

「そ、そんな会社さんがあるんですか?てっきり事実確認から、誤字脱字まで全部自分で最後までチェックするものかと…」

「前任者(インテリ(風)東大卒編集者)がそれをお伝えしていませんでしたか?それはすいません。ただ、本当に当てずっぽうで書かれる筆者さんもたまにいるので基本、内容はご本人で正確に把握して欲しかったのではないかと…」

…そうだったのか。早く言ってよ〜。

いや、これははじめての出版。無駄なことなど、一つもない。それからは気が楽になり、執筆の速度も上がっていきました。

最終提出日は、5月末日。

案の定、タレント都合で日程がズレた撮影案件が重なりました。撮影のアングルチェックや、空き時間にちょこちょこ進めてとにかく今回ばかりは絶対にスケジュール死守。


『誰にでも締め切りが必要です。締め切りがなければ気持ちがゆるんでしまいます』
と、かのウォルト・ディズニーは言いました。

また、

『締切りなしの作業なら思い切り楽しい仕事になるだろうが、おそらくまったく進行しないに違いない』
と敬愛する手塚治虫先生はおっしゃっています。

この苦しみは、「長距離ランナーの孤独」であり「意味のある苦しみ」であるはず。そして、いつかこの苦しみさえも楽しめる「ランナーズハイ」のカラダになっていくはずなのです。

締め切り日の夜、夜明けまで残された時間はあと数時間。逢魔が刻。
眠気と疲労で手が止まりかけますが、なんとか文字で埋めていきます。
事実確認や引用の疑問などでもう引っかかることはなく、キーを打つ手は止まりません。そして完全原稿といえど、提出した後も推敲する時間はまだあります。

とにかく物語を、完結させる。
その一心でした。

すでに窓の外の空は白んでいる。
最後の行を打ち終える。
画面をスクロールさせ、今一度すべての内容を確認する…。

お、終わったぁーーーー!

もうすっかり外は明るくなった午前6時。
原稿は完成しました。

推計12万字。

よくここまで書いたものだ。

山崎豊子さんは原稿を書きあげるたびに、

『長編の執筆が始まると終日、書斎に閉じこもり、日々是牢獄の思いになるのです。ですから、連載が完結したときは「出獄!万歳!」と快哉を叫ぶことになるわけです』

と、その爽快感を「脱獄」と表現していたそうです。

もちろん、昭和の大作家と量も質も比べられるものではないですが。
僕にとってその瞬間は、脱獄というより、旅の終わりの船の帰港であり、飛行機の着陸に似ていました。旅路が終わる時、早くその乗り物から降りたくなりますよね、あの感触です。

疲労と高揚感の中、編集長に向けてメールの送信ボタンを押し、倒れるように寝床に入りました。昼まで重しが乗ったように眠り、瞼を開くと返信が届いていました。

「原稿、拝受しました。脱稿です、お疲れ様でした。これから『原稿精読』に入らせていただきます。そこから修正を入れさせていただき、原稿を出し戻しして、ゲラを出させていただきます。精読には2ヶ月程度かかりますので、ゆっくりお休みください」

…あ、これ脱稿っていうんだ。考えてみれば、原稿制作のプロセスの呼び名って知らなかったな。
ゲラってなんだっけ?ゲラ、ゲラ〜バニラ〜♬中森明菜…?いや、それはネタが古すぎるだろっ!

ダメだ、しょうもない事しか考えられない…とにかく眠い。
私は再び夢の中へ旅立っていきました。

明日からは、新展開が始まります。

<つづかない>

「つながるための言葉〜伝わらないは当たり前」1月19日発売。
Amazonもしくは、お近くの書店でご予約いただけると嬉しいです。


サポートしていただいたら、そのぶん誰かをサポートします。