想起された共有現実:社会を紡ぐ「糸」
はじめに
チャットAIが時々知らないことを真実のように話すという、思い込みとも言える現象について、私が以前から考えていた、人が眠っている時にみる夢と起きている時に見ている現実の関係とも絡めて整理をしてきました。その過程で、現実の世界と、人が頭の中で認識している現実には差異があることを説明するための考え方として新たな視点を提示しました。それは、過去を司る記憶、現在の周囲の状況が自分の身体を把握する知覚、そして未来を含め知覚していない事柄を現実と確信する能力、この3つの能力を脳が持っていること。そして、それらの能力を利用して、脳の中に現実を想起しているという風に捉えるというものです(参照記事1)。
この一人一人の頭の中に浮かんでいる現実を、想起された現実と呼ぶことにして、その性質を見ていきます。
想起された現実の特性
人それぞれの想起された現実
現実の世界は1つですが、それぞれの人は、各自の中で想起された現実の中で行動しています。同じものを見ていれば、ほぼそのものに対する想起された現実はどの人でも同じようになるでしょう。しかし、見えない部分、知覚できない物事を、どのように捉えるかは人それぞれです。
想起された現実の中での存在の確信
この考え方では、人が活動するとき、少し過去と、現在と、少し未来が、常に頭の中で一体となって浮かび上がっている、と捉えます。想起された現実は、このように時間幅を持っています。この時間幅を持ちつつ、時間の流れに沿って、想起された現実は時間をオーバーラップさせながら変化していきます。単に一瞬と一瞬の連なりではなく、この時間幅の重なりを持つ想起された現実に包まれていることで、人は自分自身が、今、ここに、確かに存在するという確信を持つことができているのだと私は考えています。
これは、もしかすると意識とは何か、という問いに対する一つの解釈を与えるかもしれません。
シチュエーションによって変化する時間幅と空間の解像度
人によって、またシチュエーションによって、想起された現実の持つ時間幅や空間の解像度は異なります。変化が少なく良く知っているシチュエーションであれば、長い時間幅と高い解像度の想起された現実の中にいることができるでしょう。それに比べて、初めての場所やシチュエーションでは、想起された現実の時間幅は短くなり、解像度も低くぼやけます。
自分の家にいるときは前者でしょう。空間の解像度が高いおかげで、部屋に入った時に照明のスイッチを探さなくてもほとんど直感的に場所がわかります。また、時間幅が長いことで、安心して照明を消して眠りにつくことができます。
初めての場所に向かって移動していると、ずいぶん長い時間がかかるように感じることがありますが、2回目に同じ道を通ると、初めての時の印象よりも短い時間でたどり着くような気がすることがあります。これは最初は想起された現実が短い時間幅しか持っていなかったものの、2回目からはその時間幅が伸びたためと考えることができるかもしれません。気の合う人と一緒にいるときや得意な遊びに熱中している時は時間があっという間に過ぎるように感じ、苦手だったり嫌だなと思うシチュエーションでは時間が長く感じるのも、想起された現実の持つ時間幅の違いで説明ができるかもしれません。子供の頃に感じた1年と大人になってからの1年の長さの違いも、同じように考えらえるかもしれません。
シングルタスク性
取り組んでいる作業に必要になるような形で、想起された現実は浮かび上がっています。例えばテレビゲームに熱中している時には、そのゲームをうまくこなすために、ゲームを取り巻く部分に想起された現実は集中します。人と会話している時はその会話に、仕事をしている時はその仕事にあった形で、想起された現実の範囲や対象も変わってきます。
想起された現実を浮かび上がらせることは、おそらく、とても高い処理能力を必要とします。人間の脳が同時に1つのことしかこなせないのは、作業に合わせて想起された現実を形作ると、もうそれ以上のことができないからだと解釈できます。そして、高度に集中すると、取り組んでいる対象以外からの刺激は遮断されます。遊びに夢中で母親の声が耳に届かない子供のようなイメージですね。
集中力が高い人は、この刺激の遮断能力も高いと言えるかもしれません。一方で、様々なことによく気が付く人は、作業に取り組んでいても想起された現実の幅を広く保っているのかもしれません。それにより、作業をしながらも常に周囲の異変や違和感に気が付くことができるのだろうと思います。
想起された共有現実:個人
想起された現実は、シチュエーションによってがらりと変化します。また、眠ったりぼーっとしている時には、想起された現実は連続しておらず、途切れたり繋がりが薄くなったりもします。想起された現実の時間幅の重なりがあることで、私は私の存在の確信ができているという考え方を上に書きましたが、大きく変化したり途切れたり繋がりが薄くなった時、私の存在の確信も薄れるのでしょうか。そんなことはないはずです。
私たちには、想起された現実を浮かび上がらせる記憶と身体があります。この記憶と身体が、変化したり断続化したりする想起された現実に対して、共有感覚を引き起こします。記憶と身体が、断片化した想起された現実同士をつなぎ合わせる、いわば想起された共有現実というものを形成しているという見方ができます。これで昨日と今日の私が一人の私であると確信ができるのではないかと思います。
時間的なオーバーラップの強い一時的な想起された現実を、仮に短期意識と呼ぶとすれば、この想起された共有現実は、長期意識と呼ぶことができそうです。
想起された共有現実:コミュニティ
想起された現実が共有感覚を持つという性質は、もう一つの面があると考えています。
それは、コミュニティにおける共有感覚です。一人一人が頭の中に浮かべている想起された現実は、別々のものだと最初に書きました。しかし、長く付き合った人同士では、一体感であったり、少ない言葉でも通じ合えるようになるという性質を私たちは持っています。それを可能にしているのが、人と人との間で構築された想起された共有現実があるという風に考えられないでしょうか。複数人でチームワークや阿吽の呼吸で物事を進めることができるとき、ずれがあると上手くいきません。それは合図や掛け声といった目に見えるものだけでは説明がつかないような連携が存在するように思えます。それを、想起された共有現実が構築されていると考えると、腑に落ちる気がします。つまり同じ時間幅、同じ解像度を持った想起された現実が共有されているからこそ、チームワークや阿吽の呼吸が成立し得るのではないかということです。
意識という観点で言えば、コミュニティは、集団意識を持っていると言えるかもしれません。そして、短期集団意識と長期集団意識もあります。長期集団意識は、記憶や身体の代わりのものが必要です。何らかの場所やもの、習慣や行事のようなものでそれが維持されているように思います。
想起された共有現実という「糸」
個人と、コミュニティが、それぞれ想起された共有現実を持つことができるという考えを提示しました。これは普段、全く異なる現象に見えているかもしれません。しかし、想起された現実同士に共有部分を作り出すことができるというのは、脳の持つ特別な機能の1つであり、この2つの現象は同じ機能が作り出していると考えられそうです。
また、個人は想起された共有現実を通して、アイデンティティや人格のようなものを形成していたり、一貫した信念やこだわり、習慣や癖を持つことができていると考えられます。そしてコミュニティは想起された現実を通して、共同体意識や文化を育んだり、共通の価値観や伝統行事、慣習やローカルルールを持つと考えられます。これらは、かなり似た性質を持っており、その理由を想起された共有現実という現象で説明することができるのではないかと思えます。
そして、個人においてもコミュニティにおいてもこの想起された現実同士が、部分的に想起された共有現実を作り上げるという姿は、この記事の前半で投げかけた個人個人が異なる想起された現実を持っている、という考え方とは全く異なる社会観を提供します。個人個人の想起された現実は、確かに多様性を持ちますが、決してバラバラではありません。想起された現実は、多様でありながらも想起された共有現実によって、つながりあっているのです。それは現在を生きる私たちの、この瞬間のつながりでもありますが、連綿とした歴史的なつながりを形作ってきたものでもあります。
想起された共有現実は、時に強い絆になりつつも、絡まったりもつれたり、新しくつながったり切れたりもする。そんな風にして社会を紡いでいる「糸」のようなものなのではないかと思います。
さいごに
まだこの考え方に気が付いてから時間が経っておらず、生煮えの状態であることは重々承知しています。今回の記事の中でも上手く論理展開ができずに強引に話を進めている個所が随所にあったかなと思います。
ただ、私の中では、かなり大きな気づきであり、手ごたえを感じています。この視点を持って、人と社会の性質を見つめなおすことで、より鮮明にこの考え方の焦点が定まってくると予感しています。
参照記事一覧
参照記事1
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