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挫折は人生のセーフティーネットなのかもしれない


noteを始めたとき、きっといつかこの旅について書くことになるだろうと思っていた。

過去の旅についてnoteに記すたびに、次はあの旅について書こうと心の中で思うのだが、ついつい先延ばしになっていた。

別に自分の失敗について話すのが恥ずかしいわけではない。

そんなことを言えば、今までのnoteなんて、スキが欲しいために恥ずかしい身の上をさらしている痛いnoteばかりではないか。

僕がこの旅について書けなかったのは、旅を終え帰国した後、写真の整理をする気も起こらず、かといって、写真をすべて処分するわけでもなく、今も現像したそのままの状態で押し入れの中に放置されている、その旅の記録同様、行き場のない記憶として心の片隅に留まっている、からかもしれない。

今回はそのオートバイでの旅について話そうと思う。
過去のnoteに比べて長い文章だけど、お付き合いいただけると幸いです。


旅に出たのは、大学3年生の最後、4年生になる前の春休み。

大学1年生の夏は、オートバイで日本一周。
大学2年生の夏は、オートバイでアメリカ横断。
大学3年生の夏は、カヌーでユーコン川下り。

本来なら次の旅は、大学4年生の夏の予定だったのだが、就職活動のスケジュールを考えると、半年繰り上げたほうが良いだろう。

おそらくこれが就職前の最後の長期の旅になる。

就職してしまえば、もうこんな旅は二度とできないだろう。
僕はそのとき、大学1年生の旅の途中に沖縄で出会ったKAWASAKIの彼を思い出していた。(沖縄で出会ったKAWASAKIの彼についてはこちらのnoteで

これを最後の海外ツーリングの旅として、有終の美を飾ろう。

その最後にふさわしい目的地といえば、ここをおいて他にはない。

その地は、ダカール

パリ-ダカールラリー、通称パリ-ダカの終着点だ。

この1978年から毎年開催されている冒険ラリーは今も続いているが、出発地がパリではなくなったため、今はダカールラリーと呼ばれている。
当時のラリーの出発地は、フランスのパリ。

スポンサーのステッカーで派手にデコレーションされたカミオン(トラック)、四駆、オートバイが、サハラ砂漠のオアシス、セネガルのダカールを目指し、凱旋門をくぐりぬけ、颯爽と駆けていく。

オートバイを買うためのアルバイトに精を出していた高校生のときの僕は、砂漠へ向かう冒険者たちの雄姿に心を奪われていた。

いつもなら1年間かけて準備していた毎年恒例の海外ソロツーリング。
今年は今までの半分くらいの期間で準備しなければならない。もちろん、その資金も含めて。

朝はホテルの朝食係、昼は工場、夜は居酒屋、3つのアルバイトを掛け持ちしながら、旅の資金を貯める一方で、サハラ砂漠への旅の情報収集と準備を並行して行った。

一応リマインドしておくと、僕は当時大学生。しかも語学の単位を落としていたため、3年生になってもまだ語学の授業を受けていた。

日常の生活もかなり多忙を極めていたが、最大の関門はバイクの調達だった。

インターネットのない時代、苦労しながら情報を集めて調べたところによると、旅行者がフランスでオートバイを購入・売却するのは、かなり困難とのこと。
(制度上問題がなくても、フランス語でそれができる自信はない。しかも先程話した、僕が落とした語学の単位というのはフランス語だ。)


オートバイは日本から送ることにした。


近所のバイク店でモトクロスのオートバイを入手し、日本自動車連盟からカルネ(一時輸入通関手帳)を発行してもらう。

現地到着のスケジュールから逆算し、神戸港からフランス北部の港町ル・アーブルに船便でオートバイを送る手続きを済ませた。

予防接種もしておいたほうがいいだろうと、調べたのだが、2回の接種が必要だったり、次の予防接種まで、間を空けなくてはならなかったりで、肝炎の予防接種は日本で済ませることはできたのだが、黄熱病の予防接種は出発日までに間に合わず、到着後、フランスで接種することになった。


そして、旅立ちのときが来た。

出発前からかなりハードではあったが、パリに着いてスタートを切れば、今までの旅同様、最高のツーリングを楽しめるはず。

本物の挫折をまだ知らない僕はどこまでも楽天的だった。


パリの北、セーヌ川の河口にある小さな港町、ル・アーブルに到着。
街のいたるところにある港。そのコンテナヤードのどこかにあるはずの僕のオートバイを探し求めるところからスタートだ。

日本の船会社からもらっていた住所を頼りに、港湾オフィスを訪ねると、別のアドレスを書いた紙きれを渡され、「ここに行け。お前のオートバイはそこにある。」と。
しかし、そのアドレスの先にはオートバイはない。そして同じことが幾度か繰り返される。


オートバイを探す合間に、黄熱病の予防接種も打たなければならない。

予防接種が可能な病院を見つけて訪ねると、ワクチンはここにはない。「このアドレスのところに行け。」とアドレスを書いた紙を渡される。行けば、そこも病院のようだが、ここでは接種できず、ワクチンの販売だけらしい。

代金と引き換えに、ワクチンらしきアンプルを素のまま差し出すと、「もときた病院へこれを持って戻れ」という。言われた通り、最初の病院に戻り、購入したアンプルを手渡す。黄熱病ワクチン接種完了。

まるで、小さな紙片を頼りに、ル・アーブルの街の中をオリエンテーリングかスタンプラリーをしているような毎日。

そんな日々の中、駅にあるATMにクレジットカードを食べられてしまった。
フラン(当時はまだユーロではない)をキャッシングしようと、クレジットカードを入れたら、お金はおろか、クレジットカードも出てこない。
ATMは何事もなかったように、最初の画面を表示して無視を決め込んだ。

クレジットカードを取り戻すために、駅の事務所に銀行にと再びオリエンテーリングを開始したが、こちらはゴールにたどり着けず、日本のクレジットカード発行会社に連絡し、カードを止めてもらったりと、いつもの旅にありがちな、ささやかなアクシデントがあったものの、ついにオートバイ探しのオリエンテーリングが終了。ひと月半ぶりにオートバイと再会を果たす。
日本を出て一週間ばかりが経った頃だった。

オートバイに乗ってしまえば足取りは軽い。

セーヌ川を遡上するように南下を始める。数日後、パリに到着した


さらにスペインを経由して、マラガ海峡をフェリーで渡り、アフリカ大陸北端の国モロッコへ。
サハラ砂漠越えは、モロッコの東に位置するアルジェリアから入る予定だった。

ところがビザを入手しようとモロッコの首都ラバトにある日本大使館を訪ねると、アルジェリアへの入国ビザは発行を停止したという。

突然のビザ発行停止のいきさつを聞くと、僕がモロッコに到着した前の週にドイツの旅行者がサハラ砂漠でテロリストに襲撃されたというのだ。

日本大使館に集まった他の旅行者と情報交換しながら、1週間ほどビザ発行再開を待つが、事情が事情だけにビザ発行再開は絶望的。

大使館の職員のかたに、アルジェリアを経由せずに、ダカールまで陸路で行く方法は他にあるかと尋ねると、モロッコから海岸沿いに西サハラを経由するルートなら可能だという。
ただし、過去の政情不安からルート上に地雷が埋まっている場所があるから、道を大きく逸れないように気をつけて旅をするようにと、なかなか貴重な旅のワンポイントアドバイスをいただけた。


そうと決まれば話は早い。
ラバトを後にし、カサブランカ、マラケシュ、アガディール、ティズニットと、北大西洋沿いに一路、サハラ砂漠を目指す。

いろいろあったが、ついに念願のダカールに向けての旅が始まった。


ここから旅はサハラ砂漠編に入りたいところなのだが、

結論から先にいえば、挫折は、結構しょっぱなにやってきた。

視界からヤシの木の林が消え、行く先に次々と砂丘が現れ、周囲の景色は見渡す限り砂の世界。
いよいよここからがサハラ砂漠だ!


まさにその瞬間。

エンジンからのポン!という小気味よい音とともにバイクが止まったのだ。

そう。止まった。

ただのエンストならセルスターターを押すなり、キックレバーを踏み下げれば、エンジンが再スタートする。

しかし、その時の僕は気づいていた。これはただのエンストではない。


エンジンからなんかすっごい煙が立ちのぼってる。((((;゚Д゚))))


そして、訪れた完璧な静寂。

後にわかったことだが、エンジンのピストンが真っ二つに割れていたのだ。

現地ではガソリンの質が良くないうえに、微細な砂が混じることが多いと聞いていたので、給油にはフィルターを使っていたのだが、それでもエンジンが耐えられなかったようだ。

オートバイのエンジンピストンが見事に2つに割れたら、たいていのライダーにとってできることは、なにひとつない。

さて、次にやるべきことは?

その答えはたった一つ。
なんとかもと来た道を戻ることだが、さすがにここはサハラ砂漠。ヒッチハイクするにも、なかなか車が通らない。



ま、当たり前か。

それでも、町からそれほど遠くまで来ていないのは不幸中の幸い。
何台かの車が見えたので、手を振ってみるが、止まってくれる車はいない。食料も水も十分にあるから、しばらくは大丈夫だけど、さすがに不安になってくる。

仕方がないから、地雷に注意しながら、周辺の砂漠の中で野営でもするか。とあきらめていたところに、前方から大きな軍用トラックが轟音を響かせながら近づいてくる。荷台には機関銃を抱えた兵士が10数名。

どうやら、何時間か前に通り過ぎていった車が、通報してくれたらしく、手前の町まで送り届けてくれるらしい。
オートバイは兵士たちの手で軽々と荷台に放り込まれ、僕は、機関銃を抱えた兵隊さん達といっしょに、トラックの荷台に並んで座った。
トラックが揺れるたびに兵士たちが持つ機関銃から鈍い金属音が響く。

そして、無事、前の日に後にしたサハラ砂漠入口にある町へと帰ってきた。
と同時に、この瞬間、

僕のパリ-ダカは終わりを遂げたのだ。

その時の喪失感はたいそうなものだったけど、考えてみれば、もし、あと数日、オートバイのエンジンが好調だったら、他の車とそうそう出会うことのないようなところまで行っていたかもしれない。

そうなれば、挫折がどうのとかいう話ではなくなっていたはず。

あのときエンジンが壊れたおかげで助かった。
あの挫折があってよかった。

そもそも身の丈を越えたことをしてはいけなかったのだ。
こんな旅は本当にこれで最後にしよう。自分の無謀さに気づけただけで、命があっただけで良かったじゃないか。

この失敗から学んだ教訓があるとすれば、

挫折は人生のセーフティーネットなのかもしれない。

ということだ。


こうして、大学4年間、最後のツーリング旅が幕を閉じた。


といいたいところだが、帰国後、就職活動をしている中でむくむくと旅への欲望が頭をもたげてきていた。もはや病気である。

今回の失敗は、身の丈を越えてしまったのが原因だ。

さくっと就職を決めてしまえば、夏は無理でも卒業前の最後の春休みが残っているではないか!

そして、まだ訪れていない大陸があるではないか!

挫折に打ちひしがれながらも、僕は来るべき旅に向けて準備を始めていた。



こうして性懲りもなく計画した、大学生活最後(ほんとうに!)の旅については、またいつかのnoteに。

タイトル画像は、みんなのフォトギャラリーからしおんさんの画像を使用させていただきました。しおんさん、ありがとうございます。

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