馴れ合いが好き


  数ヶ月前、しちゃうおじさんのこの記事を読んだ。(しちゃうおじさんとは圧倒的な分析でnoteを観察しているフォロワーが8500人くらいいるおじさんだ)


  しちゃおじがこの記事で言いたいことは、正直な話をすれば痛いほどわかる。わたしはこれまでの人生の大半を”優秀じゃない側の人間”として生きてきたので、”優秀じゃない人間の特徴”みたいなものが身に染みて理解できている。そして、その代表的なものの一つに馴れ合いがあるということもまた分かっているのだ。なあなあなゆるいコミュニティの中で成長しない自分たちをなんとなく許し合うというのは、能力の低い人間に与えられた質の悪い免罪符のようなものである。



  わたしはこれまで記事を通して、どうやらしちゃおじは非常に優れた能力をもった人間らしいということを窺い知るようになってきた。彼のような人間からすればコミュニティに依存した人間の傷の舐め合いは、まさにアマチュアの営み、己の能力の低さを全く省みない人間の所業だろうと思う。実際、わたしは彼のような考え方が嫌いではないし、自分の道を自分で切り拓いていける人間というのは高次元の存在だと思う。


  しかしここは文学と詩情の森、noteである。古来から文学は優秀さという物差しに追い詰められた人間の最後の砦として、その退廃と悲哀を慰めてきたものではなかろうか。だからわたしはここで一つ、彼のこの記事に対して反論を打ってみたいのである。


  まずわたしは、何もできない人間にとって心がぶっ壊れそうになるとき、例え馴れ合いでもいいから慰めが欲しい、そんな時があると思うのである。社会に馴染めない、それを打ち明けられる人もいない、どこにも行き場がない、そんな人間が一時の気の慰めとしても縋ることができる場所があるのはそれほど悪いことではないはずだ。


   普通に生きて社会に参加している人間であれば普段は”自分の言葉に責任を持つ”ことを求められる。けれどわたしには時折そんな社会がどうも、弱った人の心を追い詰める牙を持った動物に思えるような時があるのだ。高い志をもって進むというのは光溢れる高次元の精神世界を生きることで、それは確かに理想的な状態である。けれど仄暗い光しかない低次元な馴れ合いの世界を必死に這いずりながら生きるのだって、”生きている”のには変わりないのではないだろうか。全てを投げ出してやってられないとばかりにやさぐれてしまうよりかは、馴れ合いの世界だって無いよりかはマシじゃないかと思う。


  また私は、なあなあな馴れ合いの中で生まれるコミュニケーションもそんなに嫌いじゃない。世界に置いてきぼりにされた段ボール箱の中で、捨て猫同士が会話しているようなあの感じ。自分と他者と、それから社会。そういったものを掴みたいまま掴めないでいる思春期の中学生みたいな会話も、中二病の私にとっては必ずしも悪くはないのだ。


  結局のところ、コミュニティへの依存というのは酒やタバコに溺れる依存とそんなに変わりはしない。けれど私のような弱者にとっては、縋れるものならなんでも縋りたいという時がある。だからしちゃうおじさんのようにド正論の意見を書いている人を見ると「確かにそれはその通りだけど、たまには甘えさせて欲しいな…」と思ってしまうのだ。人生は長い重荷を背負っていく旅路なのだから、不健康な依存に頼る時もあっていいのではなかろうか。


  なんだか抽象的でわかりにくい話を書いてしまったが、今日ひさびさになんとなくこの記事を読んだことを思い出し、ついつい筆を走らせてしまった。この元記事も面白いので、興味がある人はぜひ全文を読んでみて欲しい。コミュニティと自分の在り方は人によって考え方も千差万別だろうし、この問題はきっと人によっても違う答えがあるはずだ。

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