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もう可哀想は卒業だ。【フリーになった経緯、魔法、居場所】

これまで私は、自分のことを整理したくて、noteにつらつらと、色々なことを書いて来ました。自分だけのためのメモなら、わざわざネットの海に流さなくたって良い。

けれど、私のことばが誰かに届いて、浮き輪みたいに浮上する手助けになるかもしれないという一縷の望みを持って、私はずっと、私のことばを、放流し続けてきました。

今日も、私は私のためのことばを、つらつらと、みっともなく綴ります。可哀想な自分を、可哀想なままにしてるのは、私自身だったんだという、気づきについて。


1. フリーになった経緯

最近、なんかいろんなことが成り行きです。でも人生って、案外そういうものなのかもしれない。下手に逆らおうとしているから、辛いのかもしれない。そんなことを悟り始めた、20代最後の春。

これからのことも、何も知らずに、いまここに生きています。

1月の末に会社を辞め、私は3月の頭から、フリーランスとして働きはじめました。しかし、これはもう完全なる「成り行き」でした。一切、私の人生プランに入っていない出来事でした。

そうなった「成り行き」について、少々、説明を。

実は、私は2020年10月に、前の会社で休職をしていました。そして、回復の兆しが見えないため、1月末をもって退職。
さて、この先の生活をどうしようかと考えた時に、真っ先に考えたのは「お金」のことでした。幸いなことに、会社員には「傷病手当金」という制度があります。支給は最大1年半。その手当を使って、半年ほど、仕事から離れて休養を取ろう、と思っていました。

私は、そのもうひとつ前の会社でも休職し、傷病手当金を支給されていましたが、半年分はまだ申請できるだろうと、今後のことを相談していた人事からも言われていました。

しかし、待てど暮らせど、11月末に申請した傷病手当金の承認が、全く下りない。年が明けても、うんともすんとも、連絡が来ません。人事も確認中という返答しかできないという状況で、一銭もお金が入らないまま、2月に突入しました。

さすがに、少しは蓄えがあったとはいえ、4か月近く稼ぎがないと、貯金も底をつきます。それなのに、病院代、薬代など、衣食住以外の高額なお金は定期的に飛んでいく。夫に頼りながら、出来る限りお金を使わないように生活をしていましたが、ただでさえ精神的に消耗している時にそんな状況になると、どんどん「生きる意味」を見失って行きました。

明日の朝のパンを買うために、手元の本を売る。服を売る。そのパンを食べて薬を飲んで、私はまるで存在しちゃいけないみたいに、息を潜めて、1日が終わるのを待つ。

だめ、これはだめだ、大変だわ、と私はやっと気づきました。精神衛生上、本当に良くない。

もう、仕方がないから、申請が承認されたら、差分をきちんと報告しようと決めて、私はお小遣い稼ぎレベルで、個人で仕事を受け始めました。

「ささやかなおしごと」と称して、SNS用のアイコンイラストを書いたり、ちょっとした文章のリライトを手伝ったり。

そうすると、ありがたいことに、色々なところから、私が個人で仕事を受けていることを耳にした方々が、お仕事を依頼してくださりました。WEBサイトのリニューアルに伴う、WEBディレクター稼働。スライド制作のお手伝い。自分史の整理。色々なジャンルのお声掛けを頂き、気が付いたら、0円どころかマイナスだった通帳に、どんどんお金が入ってきました。

あの時に声をかけてくださった方々には、感謝しかありません。

そして、私の行動すべてが、自分への対価として支払われるということが、ただただ嬉しかったです。組織から与えられる固定給ではなく、自分の力量に対して支払われる価値が、確かにあるのだと感じられたことは、これまでにない経験でした。

私は、久々に「幸せ」でした。満たされた気持ちになりました。自分というものに、価値を感じられました。

仕事が終わったクライアントから「これからも仕事を依頼したい」というお声を頂いたタイミングと同じくして、傷病手当金の申請が却下された連絡が来ました。

1回目の支給の際と病名が同じであり、通院服薬を続けていたことにより「完治していないため前回の支給期間の延長と捉え、支給期間はすでに満了」であることが、却下の理由でした。

もう、これはカミサマが、フリーになれと言っているような気がしました。なりふり構わず、明日の生活費を稼ぐためにはじめたお小遣い稼ぎを、本業にすることに決めて、私は晴れて「フリーランス」になりました。


2. 私の力を必要としてくれる人がいる限り

フリーランスになる前のお小遣い稼ぎ、いわばフリーもどき、のことをしている期間、私はいかに、自分がさまざまなことに携わって来たかを感じました。

営業、編集、クリエイティブディレクション、ライティング、セミナー運営、スライド作成、秘書、経営企画、広報、マーケ、採用。
様々な国を親の転勤を繰り返して渡り歩いて得た、英語力。
価値観を揺さぶられて縋った、哲学という学問。そこで得た、論理学という知識。

一方で、私はとっても器用貧乏でした。

なんでもやってきたので、特別苦手なものはありません。けれど、深い専門性を得られたのはディレクションくらいで、他は短期間で部署異動になってしまい、何もかもが中途半端に感じていました。ディレクションだって、この道●年とかいう人には、到底敵わないキャリアです。

なんでもできるけれど、ある意味、何もできない。どの仕事でも、私は組織にとって必要不可欠な存在になれるほど、尖らせることができなかった。

一方で、個人で仕事をした時、ある人は、私を「魔法使い」と呼んでくれました。上流から下流まで、現場からバックオフィスまで、様々な業務を経験し、幅広い知識と、論理性と、ことばの力で、人の心を動かす。そして、それがもっと遠くに届くように、制作物を作ってくれる。たくさんの武器を、生み出してくれるのだと。

魔法使いは、基本HPが低めで、1人じゃ戦えません。魔法をかけて強くしたい相手がいないと、魔法使いは生きて行けない。

だから、もしも私が魔法使いなのだとしたら、魔法が使えるのは、私の力のおかげなんかじゃなく、私の力を必要としてくれる人がいるからなのです。私は、今の自分の環境が、どれだけ恵まれているかを、痛感しました。

組織の中では、なかなか役に立ちづらい人間だったかもしれないけれど、私の力が必要とされている限り、フリーランスとしてお仕事を続けてみよう。案件を継続して受ける返事をした日に、そう思いました。


3. 可哀想じゃなくても私は生きて行ける

海外経験、部署異動、病、などなど。
これまで私が経験したことは、決して幸福なことばかりではありませんでした。

でも、だからと言って、それらをすべて「悲劇」として語る必要はないんだと、ひとりで仕事をするようになり、私は気がつきました。これまでの私の経験から得た力に、価値を感じてくれる人がいるのだから。

ではなぜ、私は自分の経験を、「悲劇」としてしか、捉えられなかったのだろう。

理由は簡単で、ふつうじゃない経験をした、上手く周囲になじめない、必要とされないことを「悲劇」であり、私を「可哀想だ」と思っていたのは、私だから、でした。

可哀想な私を、いつか誰かが助けてくれると、私は妄信していました。可哀想な私はいつか報われるはずだと。

けれど、結局、私が私を「可哀想」だと思っている限り、私は幸せな私にはなれませんでした。人に優しくされても、私が変わらなければ、私は「可哀想」なままだから。

今、私は自分の経験を、そう悪くないものだったんじゃないかと、思えるようになってきました。「可哀想」じゃなくたって、私には、私を見てくれる人がいると、気付けました。ちゃんと、私の居場所はあったのです。

これからは私は、特別幸福でも可哀想でもない、誰かに尽くさないと捨てられるわけでもないし、憐れまれないと愛されないわけでもない、気に入られようと無理な背伸びもしなくていい人間として、生きてみようと思います。147cm、普通よりは小さくて頼りないかもしれないけれど、等身大の私のまま、私の力を求め、愛する人を探し、そのために精一杯、生きる。

成り行きでここまで来ましたが、私はただただ、嫌いなものから逃げる選択を続けているだけのように感じていました。けれど、嫌いなものから逃げることができるようになったら、次は、自分で自分の好きなものを選べるようになってきました。人の心とは面白いものです。

これからのことも、何も知らずに、いまここにいます。けれど、好きに生きてみようと思えるようになりました。


この経験も、どこかに流れて、誰かの力になれたら、いいなぁ。



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