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休職→転職を経験して気づいた「仕事ってしょーもない」という、最も大事なこと(自己紹介)

こんにちは、カタカナと申します。

記事を書いて10本目くらいになるのですが、ここで改めて自己紹介を詳しくしたいと思います。生い立ちや、仕事など。

起承転結もない割に長文となってしまいました。一つ、端的にお伝えしたいことがあるとすれば、仕事や生きる営みというものは、しょーもないものであるということです。そしてそれは決して、「私たち自身がしょーもない人間」ということを意味しない、ということです。
これは、我々のような世界と折り合いがつきづらい人間にとって、とても大事なことだと思います。

1. 生い立ち(0歳~大学)

最初の投稿にも記しましたが、田舎の一人っ子。きょうだいは、姉(猫)がいましたが21歳で他界。現在は妹(猫)と、弟(猫、柴犬)が実家におり、居候(夫の実家の猫)もいます。ワンニャンパラダイス。

0-5歳、父の仕事の都合で英語圏で過ごしました。町の皆さんから「Oh, cute baby!」と話しかけていただいたため、我が名は「cute baby」であると認識する珍事件があったそうです。

5-9歳、あまり記憶はありませんが、ふつうの小学生でした。ふつうに友達がいて、遊びまわっていました。あ、ピアノの先生が苦手でしたね。

9-18歳は壮絶でした。多感極まりない時代を英語圏で過ごし、第一次自分の居場所を見失う期に突入します。
そして帰国後、暖かい祖国だと思っていた日本でも、すっかり海外の文化に染まっていた私はクラスメートから総スカンをくらい、第二次自分の居場所を見失う期に突入します。なんせ私は家族の中では、犬と猫以外にライバルはおらず、人は愛されて生きるものである、と疑いもせずに生きていたので、とにかく存在を認められないと言うのは衝撃でした。私、どこにも居場所がないじゃん、と自分を鏡で眺めてぼーっとしたりしてました。私が生きる意味ってなんなのと考えていました。

大学は哲学科へ進学。哲学は性に合っていて、とても楽しかったですが、失恋した結果、自己肯定感を失い第三次自分の居場所を見失う期に突入します。結局、生きていることにも、世界にも、なんの意味もないという結論に至り、私は絶望しました。それでも、その絶望を抱えて生きていくしかないというヴィトゲンシュタインの論文に救われながら大学を卒業しました。

2. 就職→休職→転職(現職)

新卒入社したのはコンサル系グループ企業で、その中でもデザインを担う企業でした。
仕事内容としては、ディレクター業務です。冊子の構成案を作りデザイナーに依頼をしたり、カメラマンと構図を練ったり、WEBのサイトマップを作ったり、ライターから上がった原稿を編集したり、クライアントと折衝をしたりする業務です。ものづくりをするのが好きだったので、仕事自体は楽しかったです。

ただ当時は(今は違いますよ)ちょっと、ブラックな企業文化でしたので、22時過ぎてからが本番、0時回るまでが定時、クライアントから来た修正はその日に必ず修正して出す、徹夜は3日くらいまでは余裕でしてました。椅子を数個並べて寝る派と、床に寝袋派がいたなぁ。
つらかったですが、仕事で成果を出せば褒めてもらえる。なので、ここは私がやっと見つけた居場所なんだ、と舞い上がっていました。

いつしかその思考は、自分を犠牲にしていれば居場所を得られるという認知の歪みにつながりました。しかしある日、徹夜する際に会社の給湯室で髪を洗う時に邪魔だから、という理由で、私は背中まであった長い髪を切りました。その時にふと、我に返りました。返ってしまいました。
あれ、私何のために生きてるの?
そこから、うまく仕事が回らなくなりました。心身ともに疲れ切って、休職。とても残念ながら、そのまま退職となりました。

休職中はひたすら眠り続けて自問自答を繰り返しました。第四次自分の居場所を見失う期です。一体どれだけ見失えば気が済むのかと思うほど、見失い続けていますね。

ある程度回復したころから、有難い事に縁があって現職に就きました。
現在の仕事は、前職と少し似ていますが、商品のPR・営業・編集を行う業務です。前職と違うのは、英語を多く使う機会があることです。贅沢者と言われるかもしれませんが、英語を話せること自体がコンプレックスだったのですが、以外と使いはじめたら抵抗がなくなったので、英語が使える職場に転職してよかったと思います。

3. 生きるための営みはしょーもないことばかり

過去、もしかしたら今も、私は自分が生きる意味や、自分が存在すること誰かに許される理由を探しながら生きていました。
なので、ひとつひとつの仕事にも、意味を見出そうとしていました。これは私にかできない仕事なんだとか、この仕事ができたら自分はもっと世の中をよくできるんだ、とか。

それらの想いを抱えて仕事をするのは、楽しかったです。けれどとても苦しかったです。

例えば私は今、バイヤーから送られてきたおよそ100商品分のコメントをひたすら編集校正する仕事をしています。写真をチェックしたり、URLが正しいか打ち込んで確認したり、撮影が終了した商品をダンボールに詰めて返送したりしています。

それらの営みひとつひとつを、冷静に見たら、なんとまぁ、しょーもない。もっともっと抽象度を高めていけば、それこそ私の仕事は、世の中にインパクトを与えるような仕事であることは理解しています。ただレンガを積んでいるわけではない、皆のためになる祈りの教会を作っているんだとは、理解しています。
けれど、そこに私の存在を肯定する理由があってたまるかと、今だから思います。私は教会を作るために生きているわけではない。教会ができたら私の存在が肯定されるわけでもない。

だから、これは教会を作るためのレンガ積みなんだと理解した上で、自分の価値と仕事を切り離することを、私は学びました。

すべての仕事は、ある意味しょーもなくて、抽象化すればすべて崇高です。すべて責任が問われる、大切な営みです。けれど、段ボールにものを詰めたり、PCに文字を打ち込んでいるだけでもあります。
かつて私はそこに自分の存在を肯定する意味を求めすぎて、自分の髪まで切って、仕事に没頭し、心を壊しました。髪を切っても、仕事は私に生きる意味や居場所を与えてはくれなかった。

そして生きることは、しょーもないことの連続です。朝起きてパンを焼く行為も、ある意味しょーもない。かっこよくて素敵なあの人だって、自分のパンツは自分で洗って干しているかもしれない。世界を変える、と雄弁に語る経営者だって、今朝履く靴下をごそごそタンスをあさっているでしょう。
だから、何か崇高っぽいことをすれば、自分の存在が肯定されることなんて、ないのです。肯定するのは自分自身。しょーもないことをしているからといって、自分は決してしょーもない人間ではない。だから、生きるための営みも、仕事も、ある意味しょーもないことの連続だと考えて、肩の力を抜いてみてはいかがでしょうか。

仕事は、生きるための営みは、しょーもない。そこに、あなたの生きる意味はない。あなたは生きていることに意味がある。価値がある。そこにいるだけでいい。

そんなことを考えているのが、カタカナという人間です。
長くなりましたが自己紹介を終了します。今後とも何卒ごひいきに。

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