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姉の存在|聴こえない母に訊きにいく|五十嵐 大

 「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的」とした「優生保護法」(1948〜96年)という“悪法”が残っていた時代。障害のある人への差別的な眼差しが強く存在していたそんな時代を、聴こえない母は生き、ぼくを出産するに至った。

 その半生になにがあったのか。母を訪ね、これまで訊けずにいたことを訊き、彼女の歴史を書き留めることにした。耳が聴こえない女性の半生を見つめることを通して、当時の空気に内包されていた差別や偏見、女性として生きる困難が浮き彫りになるとも考えた。

 しかし、第一回目の取材から、母が語る過去は非常に重々しいものだった。あっけらかんと語る母を見ながら、今更ながらぼくは、褌を締めてかかることにした。

 そして2021年7月。第二回目の取材を実施した。

※聴こえない母との会話では、手話の他、口話、筆談、ボディランゲージなどが入り混じっていますが、本記事では一律で表記を統一します。〔 〕内は筆者による補足です。また、文中に登場する人物はすべて仮名です。

〈7月某日――一日目〉

 東京オリンピック2020が開催された。前日夜に開会式が行われたが、リアルタイムのテレビ放送に手話通訳士の姿がないことを残念に思いながら観ていた。多様性という言葉がとても軽々しく響く。

 夕方の新幹線に乗り、宮城へと向かう。相変わらず車内には人の姿が少ない。

 道中、『強制不妊と優生保護法』(藤野豊/岩波ブックレット)を読む。これまで主に「ハンセン病」についての著書を書かれてきた藤野さんによる、「優生保護法とはなにか」に迫った一冊だ。優生保護法がどのようにして生まれたのか、政治的な歩みとともにまとめられていて非常にわかりやすい。国が掲げる「公益」「公の秩序」というものがどれほど恐ろしいのか 、それにより社会的な「弱者」がまたしても排除されてしまうではないかと警鐘を鳴らされていた。

 実家に到着したのは夜。着くやいなや、母が夜ご飯を用意してくれた。この日のメインは鱈フライ。子どもの頃、しょっちゅう食べていたメニューだった。食べ終えると移動の疲れで眠くなる。時間も遅かったため、風呂に浸かり早々に就寝した。

〈7月某日――二日目〉

 この日の目当ては塩竈市内にある図書館へ行くことだ。小学生の頃から通っていた壱番館というコミュニティ施設の3~4階に小さな図書館がある。調べてみると現在も営業しているという。昼過ぎに向かう。

 館内には高齢の方しかおらず、数も少ない。司書に尋ね、塩竈の郷土史などがまとまっている棚へ。図書館の規模か、町の規模かはわからないもののそれが反映されているようで、資料の数はあまり多くない。タイトルと内容を一冊ずつ確かめ、知りたい情報が載っていそうな資料をピックアップする。

 残念ながら教育や福祉にかんする市の取り組みがまとめられたものは見当たらなかった。塩竈の成り立ち、広報誌、パンフレットなどを一通りコピーする。母の若い頃の広報誌は保管されていないとのこと。辛うじて見つかったのは、ぼくが生まれた直後、昭和59年、60年のもの。市内のイベント案内や、市民に新生児が誕生したことを投稿するコーナーなど、とても親しみやすい内容だったが、ここでも教育や福祉にかんする情報は見つからない。

 しかし、一件だけ、市内の女性の投稿が気になった。当時、塩竈は「福祉都市」を掲げていたらしく、手話講座も開催されていたそうだ。投稿者の女性によると、それ自体は望ましいものの、本当の意味での福祉はまだまだ遠いのではないかという。問題提起のような内容だった。母が「母」になったばかりの塩竈にそう考える人が存在していたということがとてもうれしい。

 2時間ほど滞在し、徒歩で帰宅する。この時期になるといくら東北とはいえ、東京に負けず劣らずとても暑い。

 その日の夜ご飯は焼き肉。ぼくが外出中、母と父がわざわざ買い物に出かけて肉を用意してくれたらしい。3人で囲む鉄板はとても大きいような気がした。肉を焼いてひたすら食べる。

 食べ終わり、そろそろ母への取材をしようかと思うものの、日中のかんかん照りで想像以上にバテていた。体力もそうだけれど、どちらかというとメンタル的な意味合いが強い。取材は翌日に回すことにした。が、一応、予告だけしておく。

 ――明日、昔の話を聞かせてね。

 ぼくの言わんとすることを理解すると、母は「わかった」と呟いた。

〈7月某日――三日目〉

 目が覚めると、父の姿がなかった。今日は平日、会社に行ってしまったらしい。フリーランスを続けていると曜日感覚が薄くなってしまう。しかし、母の昔話をじっくり聞くなら、なるべくふたりきりのときにしたい。ちょうど良かったので、朝ごはんを済ませて一息ついてから、取材をスタートすることにした。

 本題に入る前に、念のため確認する。

 ――昔の話、本当は話したくない?

 すると母は首を振った。話すことも、書かれることも嫌というわけではないらしい。

 ――ただ、あまりにも昔過ぎて思い出せないこともあるから。

 そう言って笑う。まずは母のテンポに合わせて耳を傾けることを意識しよう、と思った。第一回目の取材ではざっくりした流れだけを訊いたため、そのとき得た情報を元にしながら、今回は母がまだ幼児だった頃のことを中心に訊くことにした。

 ――塩竈市のどこで生まれ育ったのか覚えている?

 ――本当に小さい頃、どのあたりに住んでいたのかは覚えていないの。でも、最初の記憶にあるのは小さなアパートみたいなところだった。そこの二階にみんなで住んでたんだよ。小学生くらいになったとき、お父さん〔筆者の祖父〕が一軒家を建ててくれて、そこに引っ越したの。その家はいまもまだ残ってるんだけど、もうボロボロの廃墟になってるみたい。そのあと、ここ〔現在住んでいる実家〕に引っ越してきたの。わたしが中学生になる頃だったかな。

 ――「聴こえないこと」を自覚したのって、いつ?

 ――うーん……、それもはっきりとは覚えていないけど、周りの人たちがなにを話しているのかわからなくて、ただぼんやり見ていたような気がする。大人になってから言われたんだけど、「いつもニコニコ笑っている子どもだった」って。とにかくなにもわからないから、お父さんやお母さん〔筆者の祖母〕が口を動かし始めたら、ただそれを見て、ニコニコしていたんだと思う。

 ――それでおじいちゃんたちはお母さんの耳が聴こえないことに気付きはじめた。

 ――正確に言うと、周りの人たちから「もしかして、この子、耳が聴こえないんじゃないの」って指摘されたのがきっかけみたい。そのときは「まさか」って思ったらしいけど、それからちょっとずつ障害があるんじゃないかと思い始めたって。それが3歳くらいのときだったかな。

 ――そのあと、千葉の病院で詳しく検査したんだよね。

 ――そう、お父さんもお母さんも心配したんだろうね。千葉にある大きな病院に連れて行かれることになったみたい。ただ、まだ子どもだったお姉ちゃんたちがいたし、わたしだけが千葉の伯母さんのところに預けられて、病院に通うことになったの。でも、病院が本当に嫌いだった。怖いお医者さんではなかったんだけど、検査がすごく嫌で、病院に着くと泣いて暴れてね。ついてきてくれた伯母さんはいつも綺麗な着物を着ていたんだけど、わたしが泣き喚くもんだから、伯母さんの着物がぐちゃぐちゃになっちゃって。いま思うと申し訳ないね。

 ――それだけ嫌だった、ってことなんだね。

 ――でも病院で暴れると、その夜、伯母さんの旦那さんから叱られるの。そのときははっきり理解していなかったけど、「ちゃんと診てもらいなさい。治るんだから」って言われていたんだと思う。ただ、絶対に「はい、わかりました」とは言わなかった。どんなに叱られても「はい」とは言わない、すごく頑固な子どもだったのよ。なんだかよくわからないのに叱られているのが嫌だったのかもしれない。

 そして検査の結果、耳に障害があることがわかったの。伯母さんはとてもやさしい人だったけど、とにかく治そうと必死だったよ。多分、わたしの耳に障害があるってことが、すごく嫌だったんだろうね。

 病院という単語を出すと、母は本当に嫌そうな顔をする。いい思い出がないからだろう。

 ――じゃあ、千葉にいた頃は嫌な思い出しかなかった?

 ――ううん、伯母さんの弟の家に寝泊まりしていたんだけど、そこの子どもたちと遊ぶのは楽しかったんだよ。特に二番目の男の子はやさしくて、わたしの耳が聴こえないことを知っているのに、いつも名前を呼んでくれたの。大人になってからは疎遠になっちゃったけど、お父さんが亡くなったとき、一度連絡をくれたんだよ。

 ――それから塩竈に帰ってきたんだね。

 ――そう。由美ちゃん〔母の二番目の姉、筆者の伯母〕は「さえちゃん〔筆者の母〕、いつ帰ってくるの? まだなの?」っていつも騒いでたんだって。二歳しか離れていなかったし、由美ちゃんも寂しかったんだろうね。わたしが塩竈に戻ったとき、「おかえり!」ってすごく喜んでくれたのを覚えてる。

 ――それからの生活で覚えていることはある?

 ――耳の障害が判明したけど、特に治るわけでもないでしょう? だから相変わらず、みんながなにを話しているのかはわからなかった。でも、お父さんがわたしに言葉を教えようと一生懸命になってくれて。わたしの手を掴んで、自分の口元にくっつけると、一音ずつ発音するの。

 ――それで言葉は覚えられたの?

 ――ううん、わからなかった。手の甲で振動は感じるんだけど、それでもやっぱりなにを言っているのかはわからないんだよ。お父さんは一生懸命だったけど、わたしは話せるようにならない。だからすごく残念そうにしていた気がする。ただ、そのレッスン自体は嫌じゃなかったよ。「なんだろうこれ……」と思いながらもやってたの。

 ――他に子どもの頃の思い出ってある?

 ――お父さんが仔犬をもらってきてくれて、その子がとにかくかわいくて大好きだったよ。みんなでかわいがっていたけど、わたしが一番仲良しだったと思う。出かけるときには紐でくくっておんぶしてあげてたの。そうやって近所を散歩していたら「あそこの家の子は、いつも犬をおんぶして出歩いてる」って噂になっちゃって、お母さんから怒られることもあったんだけどね。それでもかわいがるのはやめなかった。わたしが帰宅すると必ず玄関で待っていてくれたし、いつもわたしの目をじっと見つめてくれるのがうれしかったんだよ。

 それと、お姉ちゃんたちがバレエを習っていて、それが終わる頃、お母さんが迎えに行くのについて行っていたの。さっちゃん〔母の一番目の姉、筆者の伯母〕はいつも仏頂面で踊っていて、由美ちゃんはすごく楽しそうで。それを見ているうちにわたしもバレエをやってみたくなったんだよ。だからお母さんにお願いしたんだけど、そもそも聴こえないから無理でしょう? 結局、習わせてもらえなかったな。

 ――そうなんだ……。ところで、当時はおじいちゃんもおばあちゃんも仲がよかったの?

 ――ううん、ふたりともしょっちゅう喧嘩ばかりしてたよ。大喧嘩になると、必ずどちらかが家出するの。そして理由はよくわからないけれど、家出するときは必ずわたしも連れて行かれた。

 ――心配だったから、なのかな?

 ――どうなんだろうね? これは大人になってから由美ちゃんに教えられてびっくりしたことなんだけど、ものすごい大喧嘩になったとき、お父さんがわたしを連れて家出しようとしたの。そのとき、お父さんはわたしと一緒に心中しようとしたんだって。死んでやるって叫んで、わたしを連れ出そうとしたみたい。

 そのとき、由美ちゃんがお父さんにすがりついて、「さえちゃんを連れて行かないで」って泣いたの。「絶対にダメ。絶対にさえちゃんを連れて行かせない」って泣いてお願いしたら、お父さんの怒りも鎮まって落ち着いたらしいよ。

 いま思うと、由美ちゃんはいつもお父さんとお母さんの間に入って、仲を取り持とうとしてくれてた。それだけじゃなく、わたしにもよく話しかけてくれて、じっと目を見て、なにがしたいのか、なにが食べたいのか理解しようとしてくれてたんだよね。由美ちゃんは周りにすごく気を使う、とてもやさしいお姉ちゃんだったのよ。

 あまり覚えていないと言いつつも、ひとつの思い出を話しはじめると、それに紐づくような形で次々にエピソードが出てくる。また、それを話す母の表情は暗くない。それどころか、時折楽しそうに笑う。心中未遂のエピソードなど到底笑えないものだけれど、母曰く「そんなこともあったのよね」。

 今回の取材で印象的だったのは、二人の姉とのエピソードが出てきたこと。母の人生を語る上で、やはり二人の姉妹の存在は欠かせないのだろう。次回の滞在時には、彼女たちの話も訊きにいこう。

 こうして第二回目の取材を終え、帰京することにした。

著者:五十嵐 大(いがらし・だい)
1983年、宮城県生まれ。ライター、エッセイスト。2020年10月、『しくじり家族』でデビュー。他の著書に『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』がある。
Twitter:@igarashidai0729

連載「聴こえない母に訊きにいく」について
CODA(コーダ)――両親のひとり以上が聴覚障害のある、聴こえる人。そんな「ぼく」を産んだのは、「聴こえない母」だった。さほど遠くない昔、この国には「障害者は子どもをつくるべきではない」という価値観が存在した。そんな時代に、「母」はひとりの聴覚障害者として、女性として、「ぼく」を産んだ。母の身体に刻まれた差別の記憶。自身が生まれるまでのこと。知らなかった過去を、息子は自ら取材することにした――。本連載では、その過程を不定期で読者の皆様にも共有してゆきます。


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