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一番目の伯母|聴こえない母に訊きにいく|五十嵐 大

 聴こえない母はどんな幼少期を過ごし、父と出会い、ぼくを生んだのか。母の語りによってその半生に少しずつ触れ、ぼくは彼女が歩んできた道程の豊かさを知った。同時に、当時のことをもっと多角的に理解したいと思うようになっていった。具体的に言うならば、母以外の人からの語りも得る必要がある、ということだ。

 それはもちろん、母の語りの過誤を見つけるためではない。ましてや母の物語を否定するためでもない。第三者から見た母の人生と、本人が語るそれとの間に差があるとすれば、それを知りたいのだ。真実は人の数だけ存在する。ならばぼくがすべきことは、ひとつでも多くの真実を集めることではないだろうか。そうした先に、ぼくなりの真実が見つけられる気がするから。

 話を訊いてみたい相手として真っ先に浮かんだのは、ふたりの伯母だった。母にとって一番目の姉である佐知子、二番目の姉である由美。幼い頃から母の側にいたふたりには、なにが見えていたのだろう。

 本格的な寒さに襲われた2021年10月下旬、ぼくはふたりにコンタクトを取った。

 「母について訊きたいことがあるんだ」

※聴こえない母との会話では、手話の他、口話、筆談、ボディランゲージなどが入り混じっていますが、本記事では一律で表記を統一します。〔 〕内は筆者による補足です。また、文中に登場する人物はすべて仮名です。
なお、本記事では当時の時代背景や価値観を正確に理解するため、当事者の語りをなるべくそのままの形で掲載します。ご了承ください。

〈10月某日――一日目〉

 午前中に仕事を片付け、午後の新幹線で宮城へ向かう。天気は薄曇りで肌寒かったため、少し厚手のコートを羽織った。東北はもっと寒いだろう。

 東京駅で限定商品だったレモンカステラを2箱購入する。伯母たちへのお土産だ。

 事前に連絡すると、ふたりの伯母はどちらも好意的だった。二番目の伯母とはしばらく会っていなかったし、若い頃は衝突することもあったため不安だったものの、「私でよければなんでも話すよ」とのこと。とてもありがたい。一番目の伯母からは「食べたいものがあったら作っておくから」との返事をもらう。伯母にとってのぼくは、何歳になっても甥っ子であることを痛感する。

 道中、『差別はたいてい悪意のない人がする』(キム・ジヘ 著/尹怡景 訳/大月書店)を読む。これまで社会的マイノリティの取材を何度もしてきたし、ぼく自身が「コーダ」というマイノリティ性を持っているが、そんな自分もどこかで誰かを差別している可能性に気付かされる。いや、もう少し正確に言うならば、そもそも「差別はしない」なんて誰も言い切れないとはわかっていたものの、それを明確に言語化され、突きつけられたような感覚に近い。自戒を込めて読み込んだ。

 仕事帰りの父が仙台駅まで迎えに来てくれたので、車で実家へ。この日は3人でたこ焼きをつつく。まだ実家にいた頃、家族みんなでよく食べていた。あの頃使っていたたこ焼き器は捨てたのか、新品になっていた。母はたこを細かく刻んで生地に混ぜ込むので、どこを食べてもたこに当たる。美味しい。

 食後はメールチェックをしつつ、これまでのレポートを振り返るように読み、伯母たちになにを訊くのか再度確認。早めに就寝した。

〈10月某日――二日目〉

 昼前に自宅を出て、まずは、母より5歳上の一番目の姉、佐知子のもとへ。実家から4駅隣にあるアパートで、彼女はひとり暮らしをしている。

 インターフォンを鳴らすと、久しぶりに会うのがうれしいのか、ニヤニヤしながら佐知子が顔を覗かせた。けれど、その風貌に驚く。佐知子は数年前に喉頭がんを患い、摘出手術を受けた。がんは取り除けたらしいが、術後があまり芳しくなく、再手術を受けた結果、喉に穴が空いた状態のままで生活することになってしまった。そのせいで話し声がガサガサしており、うまく発声できないようだ。そんな状況でインタビューを受けてくれたことに感謝しつつ、申し訳なさも覚える。

 築年数が結構経っているアパート内にはデミグラスソースの匂いが漂っていた。手作りハンバーグを用意していたという。佐知子は料理が上手で、幼い頃はしょっちゅういろんなものを食べさせてくれた。それを摘みながら、インタビューをスタートした。

――お母さんの耳が聴こえないことがわかったのって、いつぐらいだったか覚えている?

佐知子:さえちゃん〔筆者の母〕が3歳か4歳の頃だったかなぁ……。全然喋らないから、「あれ?」って思ったのよ。耳が聴こえる由美と比べても、やっぱりどこか違っていた気がする。家のなかにいても大人しくてさ。ただ、その頃、私が腎臓を悪くしたの。毎日病院に通って、1年間は大人しくしておかないと透析しなきゃいけなくなるよって言われて。だからお母さん〔筆者の祖母〕は私に付きっきりで、さえちゃんのことまで手が回らなかったのよ。

――それでお母さんは千葉の病院で検査を受けたって言ってた。

佐知子:そう。千葉にいる伯母ちゃんたちに言われて、千葉医大で耳を診てもらえって話になったの。その検査の結果、「この子は生まれつきだから、駄目だ」って。そのときの体験が嫌で、さえちゃんは病院嫌いになったんだよね。

――診断を受けて聴こえないことが明確になったわけだけど、そのときはどんな気持ちだった?

佐知子:お母さんもお父さん〔筆者の祖父〕も、特になにもしなかったのよ。だから、私もあえてそれを意識することもなくてさ。ふつうに面倒見てたの。

――でも、どうやってコミュニケーションを取るの? お母さん以外、誰も手話ができなかったのに。

佐知子:トントンって叩くのよ。

――それではお母さんがなにを求めているのか、誰もわからないじゃない。

佐知子:当時の私たちは、そこまで考えていなかったのよ。

――おじいちゃんとおばあちゃんも? 親なのに……。

佐知子:それでもふたりとも、さえちゃんのことを可愛がっていたと思うよ。特にお父さんはね、誰かお客さんが来ると、「佐知子、さえちゃん連れて奥に行ってろ」って言うの。意地悪してるんじゃないんだよ。他人に「この子、聴こえねぇのかや」って言われるのが嫌だったの。さえちゃんが周りの人からあれこれ言われないようにって、いつも気にしてたんだから。

――それでも、手話は覚えるべきだったんじゃない?

佐知子:そこまで気が回らなかった。当時は生活苦でもあったしね。ご飯にイワシを乗っけて、みんなで火鉢を囲んで食べるの。それが夜ご飯。そういう時代だったんだよ。

――家族以外の人とお母さんはどうやって交流していたか知ってる?

佐知子:小さい頃、さえちゃんがお金を持ち出して、近所の子たちにご馳走してたことがあったのよ。もう大盤振る舞い。あとで見つかって怒られたんだけどさ。その頃、友達もいなかったから、ご馳走すればみんなが寄ってくるって考えたのかもしれないね。でも、同じように聴こえない人たちと付き合うようになってから、交友関係も変わったみたい。

――ろう学校に通うようになってから、お母さんの世界は変わっていったということだよね。でも逆に言うと、通常学級に通っていた頃は周囲とコミュニケーションを取る術もなくて、自分の意志を伝えることができなかったってことでしょう?

佐知子:そう、できなかった。可哀想だよね。

――お母さんにとって、それはすごくしんどい状況だと思う。小学生になっても自分の意志を伝えられないなんて。それに対して、おじいちゃんもおばあちゃんも何もしなかったの? 悩んだり心配したりしなかった?

佐知子:悩んでいたとは思うよ。でも、私たちには直接言わないでしょう。

 通常の取材であればありえないことだけれど、インタビュー中にもかかわらず、伯母の話を訊きながら、ぼくは声を荒げてしまっていた。聴こえない母に対し、どうして周りの人は何もしなかったのかが不思議でならなかった。伯母は「そういう時代だった」と語るが、そんな状況下にいた母は孤独ではなかったか。

――お母さんはろう学校に通うようになって、手話を覚えたって言ってた。そこで初めてコミュニケーションの楽しさを知ったって。その当時、お母さんは家庭内でも手話を使うようになったの?

佐知子:それはなかった。私たちは手話がわからなかったもの。そもそも、手話というものが存在することを知ったのも、しばらく経ってからだよ。それにさえちゃんがろう学校に通う頃、私は家を出たから一緒に過ごすことも減ったのよ。

――じゃあ、お母さんとお父さんが東京へ駆け落ちしたことは知ってる?

佐知子:それは知らなかった。さえちゃんたちが何をしてるのか、お母さんもあんまり教えてくれなかったから。

――お母さんとお父さんが結婚した当時のことは知らない?

佐知子:それは知ってるよ。ふたりで仙台のアパートを借りたのよ。でもね、こんなことを言ったら申し訳ないんだけども、そこに聴こえない人たちが集まってきちゃって、それはそれで大変だろうなって思った。ふたりの家がまるで溜まり場のように利用されちゃうんじゃないかって。

――だったら、そもそも聴こえないお父さんとの結婚が決まったときも、不安だったってこと?

佐知子:それはやっぱり心配だったよね。相手が聴こえる人なら守ってもらえるけど、聴こえない人同士だと心配じゃない。大ちゃん、自分の子どもがそうだったらどうする?

――たしかに、当時はそういう価値観が“ふつう”とされる時代だったのかもしれない。それはわかっているし、ぼくが否定することでもないとも思う。でももう時代も変わっているんだよ。これからは、やはりその人の意志を尊重すべきだと思う。

佐知子:だけど私は心配だった。子どもができたってわかったときも、もしも子どもに何かあったらどうするんだろうって。泣いているのを見ても、なにが起きているのかわからないかもしれないでしょう? だからお父さんたちに「一緒に住んだらいいっちゃ」って言ったの。余計なことだったかもしれないけど、万が一のことがあったら嫌だったから。

――だから、ぼくが生まれたときにはおじいちゃんもおばあちゃんも同居してたんだね。

佐知子:大ちゃんが生まれたとき、お父さんもお母さんもうるさく「大ちゃん!」って声をかけたんだよ。聴こえるのかどうか知りたかったから。私も何度も話しかけたよ。そのうち音に反応するようになって、「この子、聴こえてるんだね!」ってわかった。みんなで喜んで、さえちゃんにも「ちゃんと聴こえてるよ」って教えてあげたんだから。お父さんなんて用事がなくても「大ちゃん、大ちゃん!」って言ってたよ。大ちゃんからすればうるさかったかもしれないけどね。

 インタビューを終え、少し時間があったのでそのまま佐知子の家で過ごすことにした。一階に娘である茜が住んでいるとのことで呼んでみると、小さな男の子と一緒にやって来た。母親らしい顔つきになっている茜を見て、時間の流れの速さを思った。

 夕方になり、由美のもとへと出発する。駅に向かう道すがら振り返ると、佐知子と茜、小さな男の子の3人がいつまでも手を振ってくれていた。

著者:五十嵐 大(いがらし・だい)
1983年、宮城県生まれ。ライター、エッセイスト。2020年10月、『しくじり家族』でデビュー。他の著書に『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』がある。
Twitter:@igarashidai0729

連載「聴こえない母に訊きにいく」について
CODA(コーダ)――両親のひとり以上が聴覚障害のある、聴こえる人。そんな「ぼく」を産んだのは、「聴こえない母」だった。さほど遠くない昔、この国には「障害者は子どもをつくるべきではない」という価値観が存在した。そんな時代に、「母」はひとりの聴覚障害者として、女性として、「ぼく」を産んだ。母の身体に刻まれた差別の記憶。自身が生まれるまでのこと。知らなかった過去を、息子は自ら取材することにした――。本連載では、その過程を不定期で読者の皆様にも共有してゆきます。

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