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「絶版」になれない本たちへ|荒井裕樹さんが選ぶ「絶版本」

本連載は2022年9月に書籍化されました。

山下道輔・荒井裕樹 編『ハンセン病文学資料拾遺』(全2巻、2004年)

 「絶版」という言葉に、私は羨ましさに近い感情をもっている。版が絶えたとはいえ、街の本屋という表舞台には立てたわけだから、「一度は背番号をもらってグラウンドに立てたじゃないか」と言ってやりたい気がするのだ。
 変な言い方だが、世の中には絶版にさえなれない本がある。出版即絶版という宿命を背負った本も多い。例えば「私家版」と言われる本の中には、そうしたものが少なくない。
 一般的な流通網には乗らないこうした類いの本が、私には「背番号ももらえず、ひたすら河川敷を駈け回る選手たち」に重なって見える。その健気さたるや、中毒になるほど愛おしい。

 一口に私家版といっても幅は広い。世間には様々な私家版がある。近年盛り上がっている文学フリマに出品されるようなZINEも私家版といえば私家版だろうし、俳句愛好者が自費でまとめた句集も私家版だ。以前、とある人から「裸一貫からのし上がった我が人生をまとめて自費出版したい」といった相談を受けたこともあるが、誇らしげな本人と少し困り気味のご家族とのコントラストは面白くて仕方がなかった。
 私家版の多くは、おそらく再版など想定していない。そもそも出版社さえ通さず、街の小さな印刷所で、その時の予算で作れるだけ作って、関係者に配っておしまいというものも多い。文字通り、両手で数える程度しか作っていない本もある。
 私が身を置く人文社会系の領域では、時折、こうした私家版が良い味を出す。学者を唸らせる私家版があるというか、研究が私家版に支えられているというか、とにかく、優れた私家版に出会うことが少なくないのだ。
 特に郷土史に関する私家版は奥が深い。私が生まれ育った東京西部には城跡が多く、地元の郷土史家たちによる調査成果が私家版でまとめられていたりした。戦争に関わるものでも、空襲被害や学童疎開の体験者の声を丹念に拾った私家版をしばしば目にする。知り合いの学者から聞いた話によれば、寺社や旧家に伝わる文書類の目録や翻刻にも優れた私家版が多いらしい。
 私家版は、その土地の公共図書館に収められることが多い。少なくとも私が育った街の図書館は、こうした本を大事に集めていたように思う。郷土史のコーナーには「○○さんところのおじいさん」が関わった本が開架されていたりしていて、そこに漂うご近所の匂いが好きだった。
 私家版が土地を語り、土地が私家版を生む。そうした循環が見える図書館こそ、公共図書館としてあるべき姿なのだろう。

 学者も唸る私家版の中には、かつて、地元の小中学校の先生たちによって作られたものが少なくない。定期休みなどを利用して、その問題に関心のある先生たちが集まっては、手弁当の勉強会や実地調査を積み重ね、年単位の歳月をかけてまとめたものだ。
 そうした成果は、権威ある学会で華々しく脚光を浴びるということは少ないかもしれないが、権威ある学会で華々しく脚光を浴びる学者の研究成果の土台になっていることは珍しくない。何を隠そう、私自身も博士論文をまとめた際、こうした私家版に何度も助けられた(ただし、まったく脚光は浴びていない)。
 いま教育現場は多忙を極めていて、先生たちも酷使されているから、こうした活動にまで手が回らない。「学校外の調査・研究活動」など想像すらできないのではないか。
 華々しいプロ野球や甲子園の背景には、河川敷でボールを追いかける膨大な数の選手たちがいる。スポーツも、学術も、広大な裾野に支えられるからこそ、その中の誰かが「より高いところ」にたどり着ける。小中学校の先生たちが疲弊すれば、巡り巡って、大学や研究機関の成果も痩せていく。
 こうした生態系への想像力を欠く者たちが教育・文化行政の舵取りをして久しい。国が衰退するに決まっている。

 私自身、私家版への執着心が高じて、実は何冊か作ったことがある。残りの紙幅で、その中の一冊を紹介したい。
 国会図書館の検索システムで私の名を入力すると『ハンセン病文学資料拾遺』(全2巻、2004年)という書名がヒットする。大学院生時代、山下道輔氏と共に作った思い出の私家版だ。
 山下氏は国立療養所多磨全生園(東京都東村山市)に入所されていたハンセン病の回復者で、同園の自治会が運営する図書館の主任を務められていた。ハンセン病の歴史を患者・回復者自身の手で残し後生に語り伝える――そうした使命と共に生きた歴史の守人で、業界では有名な方だった。
 私は大学院に進学した2002年から、ハンセン病文学について学びはじめた。といっても、当時は先行研究も参考資料も少なく、何を、何から、どうやって研究すればよいか皆目見当もつかなかった。
 加えて、苦難の歴史を生きたハンセン病患者たちの文学作品を私が扱ってしまってよいのかといった道義面でも悩まされた。そんな時、諸々の相談に乗って下さったのが山下氏だった。
 修士課程在学中、私は山下氏の図書館に通い詰めた。「調査研究のため」というのは表向きの理由で、その実、山下氏の人柄に惹かれ、とにかくお会いして話を聞きたかったのだ。
 ……というのも、実は少し格好付けた言い方で、取り繕うことなく正直に書けば、山下氏のところに行くと昼飯(と、あわよくばアルコール付の晩飯)にありつけたのだ。20代で受けた食い物の恩義は大きい。すこぶる大きい。

 『ハンセン病文学資料拾遺』は、その山下氏のご協力を得て私がまとめたものだ。簡単に紹介すれば、昭和10年前後のハンセン病患者たちが書いた小説の自筆原稿(たぶん原稿用紙800枚くらい)を一文字一文字ワードファイルに打ち込み、実際に刊行された作品との校異・校合をおこなったものだ。
 ハンセン病文学を研究テーマに決めたとは言え、先の道義的な悩みを抱えていた私は、悩みに悩んだ結果、「とりあえず『写経』してみよう」と決意した。まずは何も考えず、昔の患者が書いた自筆の原稿類をワードファイルで書き写してみる。そうしたら何かわかるんじゃないかと考えたのだ。
 実際に書き写したのは『ハンセン病文学資料拾遺』の他に、全生病院(全生園の前身)の患者たちが発行していた雑誌『山櫻』と、小説家・北條民雄の日記の一部(昭和12年分)だった。
 雑誌『山櫻』は、大正8年~昭和2年のものが謄写版(ガリ版)で作られている。当時の患者の経済事情や印刷技術の問題もあって、文字はつぶれて非常に読みにくい。そうした文字を一つ一つ拾いあげてはワードファイルに打ち込んでいった。
 正直、大変な作業だったが、かつてこの文章を書いた患者に向けて「あなたの文章を研究させてください」と祈るような気持ちだった。

 せっかく書き写したことだし、きっと資料としての価値もあるだろうから、ということで冊子化したのが『ハンセン病文学資料拾遺』だった。
 あの頃の私は時間も気力も体力も有り余っていたが、致命的なまでに財力がなかったから、とにかく低予算を目指した。編集も印刷もひたすら手作業。今では考えられないが、当時のパソコンはワードでも時々フリーズしたし、自宅のプリンターも貧弱な代物だったから、データをプリントアウトするだけでも一苦労だった。
 ここまでしても予算が足りず、厳格なる食費削減を自らに課した。空腹は限界まで耐え、昼食は可能な限り学食の「なめこ蕎麦」で済ます。そんなひもじさの果てにようやく予算の目処がつき、地元の事務屋に持ち込んで製本してもらったのが『ハンセン病文学資料拾遺』だった。
 ちなみに、空きっ腹に一気食いは胃腸に悪い、というのを学んだのもこの時だった。ある日、あまりの空腹に我慢の限界が来て、最寄り駅のラーメン屋で中華蕎麦(450円)をすすった瞬間、胃に激痛が走った。それ以来「まつろわぬ胃腸」との付き合いが今日まで続いている。

 『ハンセン病文学資料拾遺』は、出版物というほど立派なものではない。本のような形をしたものを作っただけだ。もはやデータも残っていない。あの時に作った分しかないから、おそらく十数冊しか存在しないだろう。
 だから、この本は絶版でさえないし、絶版さえ名乗れない。喩えるなら「背番号どころかユニホームももらえないけれど、とにかく野球が好きな奴」といった感じの本かもしれない。
 この本が誰かの役に立つのかどうかも分らない。もしかしたら、10年に一度とか、20年に一度とか、それくらいの頻度で卒論や修論を書く学生が手に取ってくれるかもしれない。
 もしも、国会図書館がこうした本を今後も保存してくれて、いつか、どこかの学生さんが役立ててくれたとしたら、山下氏から受けた食い物の恩義に報いられる気がする。
 ちなみに、私のハンセン病文学の研究成果は『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス、2011年)にまとめられている。こちらは絶版になったら困る。大いに困る。カバー写真が山下氏の後ろ姿なのだ(黑﨑彰氏撮影)。

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今回の選者:荒井裕樹(あらい・ゆうき)
1980年東京都生まれ。二松學舍大学文学部准教授。専門は障害者文化論、日本近現代文学。東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。著書に『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(現代書館)、『 生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき』(亜 紀書房)、『障害者差別を問いなおす』(筑摩書房)、『車椅子の横に立つ人――障害から見つめる「生きにくさ」』(青土社)などがある。近刊に『まとまらない言葉を生きる』(柏書房)。

連載「絶版本」について
あなたが、いまだからこそ語りたい「絶版本」はなんですか?この連載では、さまざまな書き手の方にそのような問いを投げかけ、その一冊にまつわる想いを綴ってもらいます。ここでいう「絶版本」は厳密な意味ではなく、「品切れ重版未定」も含んだ「新本市場で現在アクセスできない本」という広い意味をとっています。連載趣旨については、ぜひ初回の記事も参照ください。


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