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子どもの頃|聴こえない母に訊きにいく|五十嵐 大

「大ちゃんはなんだってひとりでやって、大人だねぇ」

 子どもの頃、周りの大人からよくこんなことを言われた。同世代の子たちと比較すると、少し大人びていたらしい。それを褒められることが多かった。

 でも、うれしくはなかった。「なんだってひとりでやっている」のではなく、「ひとりでやらざるを得なかった」だけだから。人間関係や将来のことで躓いても、耳の聴こえない両親には相談しづらかった。自分が抱えているものを、手話で正確に伝えられない。だから、黙って、ひとりでやっていくしかなかったのだ。

 それでも母は、懸命にぼくを理解しようとしてくれたのだと思う。ぼくの不安を読み取ると、顔を覗き込むように尋ねる。

 ――どうしたの? なにかあった?

 その問いかけに、何度も首を振った。どうせ伝わらない。そんなぼくを見て、母はなにを思っていただろうか。

 やがてぼくと母との間には、コミュニケーションの溝が広がっていった。

〈2021年6月某日〉

 母の過去を知りたい。どんな風に育ち、どうやって父と結婚し、ぼくを生んだのか。その歴史を知りたい。

 日本語にすれば、なにも難しいことではない。でも、それを母にうまく伝えられるのか不安だった。

 ――あのさ、お母さんの昔の話が訊きたいんだけど。

 母はぼくを真っ直ぐ見つめ、不思議そうな顔をしている。ぼくはそっと付け足した。

 ――お母さんがどんな子どもだったのか、お父さんと結婚するとき、ぼくを生むときにみんなに反対されなかったのか、それが知りたい。そして、それを書きたいんだ。

 すると母は少し考え込んだあと、破顔した。

 ――わたしのことを書くの? 恥ずかしいね。

 どうやらわかってもらえたみたいだ。特定されないようにすること、母が嫌だと思うことは書かないことを約束すると、納得したように頷いてくれた。

 いよいよ始まる。でも、なにから訊けばいいだろう。ふだんのインタビューならば目的がはっきりしているため、こんな風には困らない。けれど、「母の人生」というテーマは茫然としすぎていて、取っ掛かりがないように思えた。手がかりを見つけるため、まずは簡単な事実確認から始めることにした。

※聴こえない母との会話では、手話の他、口話、筆談、ボディランゲージなどが入り混じっていますが、本記事では一律で表記を統一します。〔 〕内は筆者による補足です。

 ――耳が聴こえないって、いつ頃わかったの?

 ――3歳くらいの頃に、近所の人たちから「この子、聴こえていないんじゃないの?」って指摘されることが増えたんだって。でもお母さん〔筆者の祖母〕は、「言葉が少し遅いだけで問題はないのよ」って、あまり気にしていなかったみたい。でも、そのあとでね、千葉にある病院に連れて行かれたの。

 ――その病院で検査を受けたってこと?

 ――そう。伯母さん〔筆者の祖父の姉〕が住んでいて、そこに預けられながら。

 ――預けるって、どうして?

 ――検査に時間がかかるからって、一年くらいは伯母さんのところに預けられて、そこから通院していたんだよ。その病院で、耳に障害があることがわかったの。伯母さんはとてもやさしい人だったんだけど、わたしの耳が聴こえないことをすごく嫌がって。どうにかして治らないのかって必死だったんだと思う。わたしが嫌がっても、病院に引っ張っていって。

 千葉での思い出を話す母は、とても懐かしそうな表情を浮かべていた。自身の障害が明らかになった当時、少なからず嫌な想いをすることもあったのではないだろうか。それでも母は、なんのことはない昔話をしているかのように見える。

 ――宮城に戻ってからはどんな風に育ったの?

 ――6歳になって、近くにあった一般の小学校に通うことになったの。でも、聴こえない子どもはわたしひとりだけ。先生がなにを言っているのかもわからなくて、授業にはついていけなかったよ。

 そこまで話すと、なにかを思い出したのか、母は急に笑い出した。

 ――そうそう、面白いことがあってね。テストがあったとき、配られたプリントに一体なにを書けばいいのかわからなくて。名前の欄に自分の名前を書くことさえわからなかったの。それで困っちゃって、隣の子が書いている内容をそのまま丸写ししたのよ。だから、名前の欄にはその男の子の名前を書いて。そうしたら先生が、「ここには、あなたの名前を書くんだよ」って教えてくれて、初めてそういうものなんだってわかったんだよ。それからテストでは自分の名前を書けるようになったけど、内容はまったく理解していなかったから毎回0点だったんだけどね。

 その光景が目の前に広がっていく。正直、ぼくには笑えなかった。

 ――ろう学校にはいつから通ったの?

 ――中学生になってから。授業についていけなかったから、やっぱり一般の学校では難しいことがわかって、仙台にあるろう学校に通うことになったの。

 ――そこに入ってから、なにか変わった?

 ――そこで初めて手話を教わって、みんなとお喋りするのがこんなに楽しいのかってびっくりしたよ。先生だけじゃなくて、同級生も一生懸命わたしに手話を教えてくれてね。

 母が通うろう学校では手話が大切にされていたらしく、厳しい口話訓練はなかったそうだ。その代わり、当時、岩手のろう学校に通っていた父は、徹底的な口話訓練を経験していたという。母が教えてくれた。

 ――口の前に水を張ったコップを置かれたり、薄い紙を垂らされたりして、そこで何度も何度も発声練習したんだって。水面や紙が動けば、きちんと声が出ているってことがわかるでしょう? でも、そんなの大変だよね。

 母と比べると、父の発音はとても明瞭だ。それは、彼が生まれつき聴こえないわけではなく、幼少期に音を失った中途失聴者だからだと思っていた。しかし、そうではない。幼い頃、必死で訓練させられてきた歴史があったのだ。

 一つひとつ知っていくにつれて、心が重たくなっていく。自分から言い出したことなのに、しんどい。でも、母はどのエピソードもあっけらかんと話してくれる。

 とはいえ、母にも負担がかかっていることに違いはないだろう。ぼくが質問すると、思い出を探るようにしばし沈黙したのち、母は話し出す。その過程において、苦しかった記憶が蘇ってくることもあるはずだ。これから先の話は特に――。

 ぼくが知らなかったこと、知ろうともしなかったこと。出だしから、頭がパンクしそうだった。

著者:五十嵐 大(いがらし・だい)
1983年、宮城県生まれ。ライター、エッセイスト。2020年10月、『しくじり家族』でデビュー。他の著書に『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』がある。
Twitter:@igarashidai0729

連載「聴こえない母に訊きにいく」について
CODA(コーダ)――両親のひとり以上が聴覚障害のある、聴こえる人。そんな「ぼく」を産んだのは、「聴こえない母」だった。さほど遠くない昔、この国には「障害者は子どもをつくるべきではない」という価値観が存在した。そんな時代に、「母」はひとりの聴覚障害者として、女性として、「ぼく」を産んだ。母の身体に刻まれた差別の記憶。自身が生まれるまでのこと。知らなかった過去を、息子は自ら取材することにした――。本連載では、その過程を不定期で読者の皆様にも共有してゆきます。


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