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二番目の伯母|聴こえない母に訊きにいく|五十嵐 大

〈10月某日――二日目〉

 一番目の伯母である佐知子へのインタビューを終え、ぼくは由美のもとへと向かっていた。彼女は二番目の伯母であり、母とも年齢が近い人だ。

 佐知子の家はぼくの母が住む実家から4駅隣にある。そして由美が住んでいるのは、佐知子の家からは電車で15分ほどのエリア。ちょうど5駅先だ。最寄り駅からマンションまでは少し距離があるそうで、わざわざ車で迎えに来てくれるという。

 改札を抜け、駅前のロータリーに降り立つと、車が近づいてくる。ウインドーが下がり、「大ちゃん、こっち!」と由美の声がする。久々の再会にやや緊張しながら乗り込むものの、由美が「よく来たね」と笑いかけてくれ、すぐに伯母と甥っ子の関係に戻っていく。現在、民生委員をしている由美はとても忙しく、午前中はその研修があったという。若い頃は看護師をしており、人のために働くのが好きな由美らしい。「由美ちゃんは周りにすごく気を使う、とてもやさしいお姉ちゃんだったのよ」という母の言葉をふと思い出す。何歳になっても誰かのためになにかをするのが好きなのだろう。

 マンションまでの車のなか、由美は何度も「さえちゃん〔筆者の母〕と私はね、本当に仲がよかったんだよ。だから、どんなことだってわかる」と繰り返す。心なしか、どこか泣き出しそうな口調だった。

 辿り着いたのは、とても綺麗で高級感あるマンションだった。マンションを購入したのは知っていたものの、こうして訪れるのは初めてだ。きっちりした性格の由美らしく、室内は整理整頓されている。「忙しくてなんにも準備できていなくて。本当は晩ご飯をご馳走したかったのに、ごめんね」と謝られる。

 リビングのテーブルに座ると、淹れたてのコーヒーが出される。カップで手を温めていると、目の前に由美が腰掛ける。

 「どんなことだって話せるからね」

 こうしてインタビューが始まった。

※聴こえない母との会話では、手話の他、口話、筆談、ボディランゲージなどが入り混じっていますが、本記事では一律で表記を統一します。〔 〕内は筆者による補足です。また、文中に登場する人物はすべて仮名です。
なお、本記事では当時の時代背景や価値観を正確に理解するため、当事者の語りをなるべくそのままの形で掲載します。ご了承ください。

――お母さんの耳が聴こえないことがわかったときのことって覚えている?

由美:最初はね、近所の人から「この子、耳が聴こえないんじゃない?」って指摘されたのがきっかけだったみたいよ。呼びかけても振り向きもしない。それで、もしかしてって思ったんだろうね。でも、親からするととにかく可愛い頃だから、ちょっとしたことに気付けないのよ。だから、他人の方が鋭いんだろうね。

――「妹は耳が聴こえないんだ」って由美ちゃん自身が理解したのはいつ?

由美:私が5歳くらい、さえちゃんが3歳の頃だね。その頃、お父さん〔筆者の祖父〕からもお母さん〔筆者の祖母〕からも、「さえちゃんがなんて言ってるのか教えて」ってよく訊かれてたの。

――由美ちゃんが“通訳”をしていたんだね。

由美:そうだね。言おうとしていたことは全部わかってた。だからね、途中で手話を覚えようかなって思ったんだけど、自分には必要ないって判断したの。姉妹だから、通じるのよ。それは大人になってからもそうだよ。大ちゃんが生まれてからも、お父さんたちが「由美、さえちゃんが言ってることがわかんないんだよ」ってよく訊かれて。逆に言うと、同居してたからといって、お父さんたちとさえちゃんが100%通じ合っていたかというと、そこはわからないよね。

――なるほど。妹の耳が聴こえないってわかったとき、率直にどう思ったの?

由美:「助けてあげたい」って思ったよ。近所の子たちからのいじめもあったの。あの頃、さえちゃんが外を歩いてると、近所の子たちが「あっぱ! あっぱ!」って騒ぐのよ。それを見つけたら、相手が男の子だろうとなんだろうと、「なんでそういうこと言うんだ!」って歯向かっていったの。

――小さい頃から「守りたい」という意識が強かったんだね。

由美:そう。さえちゃんが馬鹿にされていたら、私が守るんだって思ってた。でもね、さえちゃんもすごく強い人なんだよ。これは私が二十歳を超えてからのことなんだけど、お父さんとお母さんが不仲だったこともあって、すごく悩んでいた時期があったの。それこそ、もう死んでしまいたいって思ってた。そのとき、私の気持ちに気付いたさえちゃんが、「由美ちゃんは耳も聴こえるし、なんの障害もないのに、どうして死のうと思うの? 私は聴こえないし、思うように喋れないけど、死のうって思ったことは一度もないよ!」って言われたの。その言葉で目が覚めて、立ち直ることができた。だからね、大ちゃんのお母さんは本当に強い。

 話しながら、由美が涙ぐむのがわかった。喧嘩ばかりしていた祖父母の様子が再生されていく。ぼくが子どもの頃も、ふたりの仲は決して良好とは言えなかった。そんな親を持った由美がどれだけ苦しい思いをしたのか、ぼくには想像もつかないだろう。

 でも、本当に苦しかったとき、由美を救ったのが母の一言だったという。それを聞き、ぼくは胸がいっぱいになってしまった。

由美:さえちゃんはろう学校に入ってから、ますます活き活きとしていったの。いま思えばそれまでは、聴こえないことで、できることが制限されていたんだろうね。通常学級に通わせていたけど、先生の言っていることがわからないから宿題だってできなくて。でも、ろう学校だと他の子たちも聴こえないから、条件が一緒なわけでしょう。みんなとも仲良くなって、本当に楽しそうにしてた。

――そんなお母さんを見て、おじいちゃんたちはなにか言ってた?

由美:はっきり言ったことはなかったけど、最初からろう学校に通わせればよかったとは思っていたんじゃないかな。ただ、小学生くらいだと寄宿舎に入れることになるの。親としては、そんな小さい頃から離れて暮らすのはやっぱり苦しいかもしれないね。それに、小学校に上がる前、ろう学校の幼稚部に1週間くらい通ったんだけど、そのときは「この子、通常学級でも大丈夫かもしれませんよ」って言われたのよ。でも、結局は無理だった。だから、ろう学校の中等部に入って楽しそうにしているさえちゃんを見て、初等部から通わせればよかったなって。

――そのろう学校でお父さんとも出会ったんだよね。

由美:そうそう。さえちゃんはね、ずっと浩二〔筆者の父〕くんに憧れてたんだって。その頃の浩二くんは陸上部の選手で足が速くて、みんなから「三浦友和に似てる!」って騒がれてたんだよ。高校生になってからふたりは付き合うようになって。そして、家出したの。

――え! それってふたりで東京に駆け落ちしたときのこと? 二十歳くらいだったって聞いたけど……。

由美:厳密に言うと、さえちゃんがまだ高校生だった頃、卒業する前にふたりは駆け落ちしたのよ。さえちゃんは小学校に入るとき、1学年遅れてたのね。だから高校3年生のときは19歳になっていたんだけど、それでもまだ二十歳前。朝、「行ってきます」ってふつうに学校に行ったんだけど、なかなか帰ってこなくて。みんなで必死になって探したんだけど、結局、釜石市〔岩手県〕のほうで見つかったのよ。

 母が駆け落ちしたのは二十歳の頃だと訊いていた。しかし、正確には19歳。しかも高校を卒業する前のことらしい。いずれにせよ相当な覚悟があったことに違いはないだろう。でも、高校在学中となると、より深刻ななにかを感じてしまう。

――高校を卒業する前に家出するってよほどのことだと思うけど、理由は知ってる?

由美:詳しいことは訊かなかった。私のなかで、それは禁句にしてるから。お父さんとお母さんは仲が悪かったし、いろんなことが嫌になったのかもしれない。

――お母さんが聴こえないお父さんと付き合うって知ったとき、由美ちゃんはどう思ったの?

由美:浩二くんの耳が聴こえないことに対しては、なんにも思わなかったよ。浩二くんの家庭も複雑だったから寂しかったんだと思うけど、毎日さえちゃんに会うために家までやって来てさ。そうするとお母さんが晩ご飯を用意して、一緒に食べるのよ。それがとっても楽しかったんだろうね。本当に毎日遊びに来てたんだから。

――お母さんに聞いたんだけど、お父さん側の親からは交際を反対されたことがあったんだって。

 由美:そうなんだ……。さえちゃんとは結婚させたくなかったのかもしれないね。でも、うちはまったくそんなこと思わなかったよ。浩二くんもとてもいい子だったし。ふたりが結婚して、家を出ることになったときも心配はなかった。浩二くんがいてくれるなら大丈夫だなって思ったんだよ。ただ、さえちゃんと浩二くんがふたりだけで暮らすようになってから、お父さんはたびたび様子を見にいくようになったの。それである日、インターフォンを鳴らしたんだけど、さえちゃんが出てきてくれなくて。こっそり窓から覗いてみたら、さえちゃんが一生懸命お化粧してたのよ。でも、インターフォンの音は聴こえないから、出てきてくれない。そのとき、お父さんは「ああ、これが聴こえないってことなんだな……」ってこぼしていて、すごく悲しい顔をしたのよ。そんな出来事もあって、いずれは一緒に暮らそうと思うようになったみたい。

――それでちょうど妊娠したタイミングで同居が始まったんだね。

由美:そうだろうね。さえちゃんが出産するときなんて、私が一晩中付き添ったんだよ。

――そうだったんだ。産婦人科のお医者さんの言葉も、由美ちゃんが通訳したってこと?

由美:そうなの。お医者さんが言ってることをさえちゃんに伝えてた。でも、なかなか生まれなくてさ。ついウトウトすると、さえちゃんに「私はこんなにお腹痛いのに、お姉ちゃんはよく寝てられるわね!」なんて怒られちゃって。結局、帝王切開することになったんだけど、そのときも「もう痛くて仕方ないから、さっさと切ってください!」って言うもんだから、お医者さんや看護師さんも笑ってたんだよ。そうして大ちゃんが生まれたの。

――ぼくが生まれたとき、みんなはどんな反応だった?

由美:お母さんはね、「浩二くんそっくりね! さえちゃんに似てもよかったのに」なんて笑ってたよ。私は「そんなことないよ」って言ったんだけど、いま思えば、本当に生き写しだった。浩二くんも「ああ、俺の子だ!」って言ってて。

――ぼくが聴こえるかどうかは、やっぱり気になった?

由美:そこは心配してなかったのよ。数カ月経って、「大ちゃん」って声をかけるとニコって笑ってくれるようになったから、「聴こえてるんだね」って。そして、自分の子が無事生まれてきてくれて、なによりもさえちゃんはうれしそうだったよ。さえちゃんにとって、大ちゃんは「いのち」なんだと思う。自分ができなかったことは何でもさせてあげたいって考えてたし、だから、滅多に怒ることもなかったでしょう? 大ちゃんがこうして本を書くようになる前、まだアルバイトしていた頃も、「大丈夫」って信じて、ずっと応援してたんだから。

 由美へのインタビューが終わる頃、由美の夫である康文が帰宅した。時間は19時に差し掛かっており、外はすっかり暗くなっている。これから一家で晩ご飯を食べるというので、お暇することにした。康文が駅まで見送ってくれるというので、ふたりで仕事の話をしながら駅まで歩く。改札前で別れ、電車に乗って帰宅した。

 実家では父と母がテレビを観ながら笑っていた。後ろから肩を叩くと、ひどく驚いている。思ったよりも早く帰ってきたことにびっくりしたようだ。用意してくれた晩ご飯を食べながら、佐知子や由美から聞いた話を伝える。当時、ふたりは何を見ていたのか、どんなことを思っていたのか。それを知り、母は懐かしそうに目を細めた。どことなくうれしそうだった。

 風呂から上がり、母と雑談する。ここでもまた、伯母たちから訊いたエピソードをなぞると、母は「そうそう」「そんなこともあったね」と頷く。

 幼い頃のぼくの目には、3姉妹の姿がとても複雑なものとして映っていた。衝突することも少なくなかったと思う。けれど、それ以上に深い結びつきがあったのだろう。子どもだったぼくには見えていなかったものがたくさんあったのだと痛感する。

〈10月某日――最終日〉

 伯母たちから訊いた話を元に、詳細を知りたいと思ったことについて母に軽くインタビューすることにした。インタビューも回数を重ねてきたので、母も慣れたようだ。「何でも訊いてね」と構える様子もない。

――耳が聴こえないことを自覚したのはいつ?

母:子どもの頃はよくわかっていなかったよ。近所の子たちがお喋りしながら遊んでいるのを見て、その真似をしてみたこともあったけど、何が違うのかもわからなかった。自覚したのはろう学校の中等部に入ったとき。手話を使って会話している子たちを見て、最初は「なんだろう、これ」と思ったの。そのときに「あなたもみんなと一緒なんだよ」と言われて、初めて自分が聴覚障害者なんだってわかったんだよ。その頃、13歳だね。それまで耳が聴こえない人に会ったことがなかったから、みんなが手話でお喋りしているところを見たときは本当にびっくりした。自分と同じ人たちがこんなにいるなんて思わなかったし。でも、うれしかったよ。聴こえる人たちのなかにいてもわからないことだらけだったけど、やっとお喋りできるようになるんだって思ったら、すごくうれしかった。

――「聴こえるようになりたい」って思ったことはあった?

母:お姉ちゃんたち〔筆者の伯母たち〕が話すのを見ていいなって思ったり、テレビでうたってる歌手を観て、「もしも聴こえていたら、私も歌手になれたかな」と思ったりすることはあったかな。でも、聴こえるようになりたいと強く願うことはなかった。生まれつきなんだから、仕方ないって。ろう学校に入ってからできた聴こえない友達のなかには、「聴こえるようになりたい」って思っている子もいたけど、私はそうは思わなかった。

――ろう学校にはひとりで通ってたの?

母:最初のうちはお母さん〔筆者の祖母〕とふたりで通ってたんだよ。電車とバスを乗り継いで、1時間以上かかる場所にあったから。でも、慣れてからはひとりで通うようになった。朝6時半には家を出て、8時半から15時頃までは学校だった。友達ができてからは、学校終わりに仙台で遊ぶことも増えたの。

――手話はすぐに覚えられた?

母:クラスメイトたちは初等部からろう学校にいる子たちばっかりだったから、みんな手話がうまくて。それなのに私は手話ができないでしょう。だからね、クラスメイトが手話を一生懸命に教えてくれたのよ。おかげで半年くらいでお喋りできるようになって、先生たちもびっくりしてた。

――ろう学校の先生のことは覚えてる?

母:中等部の国語の先生がとてもやさしい人で、思い出に残ってる。そこで「言葉」というものがあると知って、それからはお母さんやお父さん〔筆者の祖父〕ともコミュニケーションが取れるようになっていったんだよ。

 この後も母との雑談は続いた。行きつ戻りつしながら、ときには何度も同じことを繰り返しながら、ぼくは母の人生をまた少し理解した。

 伯母や母の話を聞いて、引っかかりを覚えるエピソードも出てきた。小学校への入学が1年遅れてしまったこと、高校を卒業する前に駆け落ちに至ったこと……。これらについてはあらためて整理していく必要がありそうだ。

 同時に強く感じたのは、母にとってろう学校の存在がいかに大きいものだったのか、だ。“仲間”とも言える聴こえない人たちの存在、手話の獲得、そして父との出会い。それはきっとかけがえのないものだっただろう。

 母が通っていたというろう学校に取材をしたい。受けてくれるかはわからない。でも、一度コンタクトを取ってみよう。

 こうして三度目の滞在を終え、ぼくは帰京することにした。

著者:五十嵐 大(いがらし・だい)
1983年、宮城県生まれ。ライター、エッセイスト。2020年10月、『しくじり家族』でデビュー。他の著書に『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』がある。
Twitter:@igarashidai0729

連載「聴こえない母に訊きにいく」について
CODA(コーダ)――両親のひとり以上が聴覚障害のある、聴こえる人。そんな「ぼく」を産んだのは、「聴こえない母」だった。さほど遠くない昔、この国には「障害者は子どもをつくるべきではない」という価値観が存在した。そんな時代に、「母」はひとりの聴覚障害者として、女性として、「ぼく」を産んだ。母の身体に刻まれた差別の記憶。自身が生まれるまでのこと。知らなかった過去を、息子は自ら取材することにした――。本連載では、その過程を不定期で読者の皆様にも共有してゆきます。


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