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父との結婚|聴こえない母に訊きにいく|五十嵐 大

 ぼくは目と耳の両方から情報を得ることができる。それが「当たり前」のことすぎて、そのどちらかが困難な状況になったとき、一体どんな気持ちになるのか想像できていなかった。

 聴こえる大人たちに囲まれ、意味もわからずに病院での検査を繰り返させられた、聴こえない母。当時の彼女には、どんな景色が見えていたのだろうか。

※聴こえない母との会話では、手話の他、口話、筆談、ボディランゲージなどが入り混じっていますが、本記事では一律で表記を統一します。〔 〕内は筆者による補足です。また、文中に登場する人物はすべて仮名です。

〈2021年6月某日――二日目〉

 ――大きな病院で耳の検査をするため、千葉にある伯母さんの家に預けられたって話だったけど、地元に戻ってきてからは一切検査を受けなかったの?

 ――中学生になった頃だったか、お父さんとお母さん〔筆者の祖父母〕と出かける機会があったの。どこに連れていかれるのかわからなかったけど、とにかく楽しみで車に乗ったんだよ。そうしたら、大きな病院に着いて。戸惑っていると、お母さんが「ここで耳を治すから、降りなさい」って言ったの。それが怖くて怖くて、泣いて暴れて……。そんなわたしを見て、お父さんもお母さんも諦めたのか、結局、病院には行かずにそのまま家に帰ったんだよ。

 ――なにをされるか説明されなかったの?

 ――「耳を治す」って言ってたと思うけど、詳しいことはわからなかった。だから怖かったの。それに似たことがもうひとつあってね、同じくらいの時期に、一度、千葉の伯母さんの家に遊びに行ったのよ。そしたら、「手術しないか」って言われて。

 ――手術って、人工内耳の手術のこと?

 ――いま思えばそうだったんだと思う。「頭を開いて手術すれば、聴こえるようになるから」って。でも、手術なんて受けたくなくて、たくさん涙が出てきた。伯母さんは、わたしの耳が聴こえないことが嫌だったんだよ。だから手術を勧めてくれたんだけどね。

 日本で初めて人工内耳の手術が行われたのは、1985年のこと。1954年生まれの母が子どもの頃には、現在のような手術はまだ実施されていなかったはずだ。一体、どんな手術だったのだろう。

 インターネットがない当時は、いまよりも情報を集めるのが困難な時代だったと思う。そんな状況で、確かなものはなにもないまま、母は「耳を治す」と連れ回されたのだ。

 ――でも、拒否できたんだね。万が一のことがなくて本当によかった。子どもの頃の話はまた今度じっくり訊くとして、次はお父さん〔筆者の父〕とのことについて教えてほしいんだけど、どこで出会ったの?

 ――浩二さん〔筆者の父〕と出会ったのは、16歳の頃だったかな。浩二さんは中学校までは岩手のろう学校にいて、それから宮城に帰ってきたのよ。そこで出会って、付き合うようになったの。

 母と父はいまでこそ幸せそうに暮らしているが、交際から結婚に至るまでが順調だったわけではない。昔、祖母が言っていた。ふたりの結婚にも反対し、結果、ふたりは駆け落ちまでしたこと。そこまでするなら、とようやく結婚を認めたこと。しかし、子どもを作ることは禁じたこと。

 ――お母さんは駆け落ちしたんだよね? そのときのことを詳しく聞かせてくれる?

 ――高校を卒業して、和裁の学校に入ったの。でも、そこはろう学校じゃないから聴こえる人しかいなくて、しばらくして辞めちゃった。その頃、浩二さんはアルバイトをしていたんだけど、このまま宮城にいても仕方ないから、ふたりで東京へ行こうかって話し合ったのよ。東京にはろうの知人がいて、そこで働かせてもらえることになったのもあってね。当日、誰にも言わないで東京へ向かったんだけど、知人が待ち合わせ場所に来なくて。連絡もできないし、もう諦めて帰ることにしたんだよ。そうしたら、お父さんもお母さんも慌ててわたしたちのことを探していて。

 ――それは心配するよ……。でも、そこまでしたから、おばあちゃんもふたりの結婚を認めてくれたんだね。

 すると、母が「違うよ」と言った。

 ――わたしが浩二さんと一緒になることに反対していたのは、お母さんじゃないよ。

 ――でも、おばあちゃんは「自分が反対した」って言ってたよ?

 ――厳密に言うと、反対していたのは浩二さんのお母さん。わたしが浩二さんと付き合うようになった当初から、家に電話をかけてきてたんだって。「うちの息子とお宅の娘さんが付き合うのはやめさせたい」って。

 生まれつき耳が聴こえない母とは異なり、父は後天的に音を失っている。先天性の聴覚障害者と中途失聴者。その違いが関係していたのだろうか。

 振り返ってみれば、母は父の実家に行きたがらなかった。年に一度、正月に遊びに行っても、父の実家で、母はどこか居心地が悪そうにしていた。

 ――それもあって、おばあちゃんはふたりの結婚に反対していたのかな。

 ――強く反対はしなかったけど、お母さんはお母さんで「結婚するなら、絶対に聴こえる人を選びなさい」って言ってた。「聴こえない人同士だと大変なんだから」って。でもね、わたしは「結婚するなら、自分と同じ聴こえない人がいい」ってはっきり言ってたの。わたしは聴こえる人の話すことがわからない。でも、聴こえない人とだったら、手話でたくさん話せるし、わかり合えるでしょう? 浩二さんと結婚できたのは、26歳のとき。

 ――出産についてはなにか言われた?

 ――浩二さんと結婚することが決まったときに、「もしも聴こえない子どもが生まれてきたらどうするの?」とは言われたよ。やっぱり心配だったみたい。でも、結婚して4年目であなたができたとき、お母さんは喜んでくれた。不安もあったとは思うけど、うれしそうだったよ。生まれたあなたの耳が聴こえることがわかったときは、もちろん安心していたしね。

 母と父は16歳で出会い、二十歳で駆け落ちをし、26歳で結婚した。そして、29歳で出産をする。

 でも、祖母から聞いた話では、「結婚してからも10年は出産に反対していた」という。この認識のズレは、もしかしたら祖母の罪悪感からくるものだったのかもしれない。とはいえ、聴こえない子どもが生まれることへの不安を口にしたことで、母や父に抑圧があったことも事実ではないだろうか。

 ――でもね、ふたりめが欲しいと思っていたんだけど、それは却下されたの。

 ――どうして?

 ――実はね、あなたを生むとき、帝王切開だったのよ。だから、「もしも二回目も帝王切開になってしまったら、体に負担がかかるから」って言われて、諦めることにしたんだよ。

 祖母が母に向けていたのは、「心配」や「不安」だった。でも、心配や不安と「差別」との線引きはどこにあるのだろう。母の話を聞いていると、自分の中にある境界線がどんどん揺らいでいく。だから、思い切って訊いてみた。

 ――あのさ、聴こえないことで差別されて、嫌な思いをしたことはなかった?

 ぼくの質問を受け、饒舌だった母が黙る。その姿は、過去に思いを巡らせているようにも見えた。

 ――差別はあったのかもしれない。ただ、一番酷かったのは、聴こえる人たちからではなく難聴者からの差別だったよ。ろう者とは一緒にされたくないって、わたしたちのことを馬鹿にしていた。

 その回答に続けてなにを訊けばいいのかわからなくなり、その日のインタビューは終了することにした。

〈2021年6月某日――最終日〉

 第1回の取材、最終日。この日は母の証言をもとにした簡単な年表作成に留めておいた。質問を投げかければ母はなんでも答えてくれるものの、少し疲れているようにも見える。

 帰る支度をしている横で、母と父が赤紫蘇の束をもいでいた。居間に独特の香りが漂う。梅干しでも作るのだろうか。その営みは、ささやかな幸福に包まれているようだった。

 そんなふたりを見て、申し訳なさがこみ上げてくる。自分がしていることは、ただの自己満足なのではないだろうか。静かな幸せを噛みしめるように生きている母の過去を掘り起こし、書こうとしているのだから。

 なるべく母を傷つけないようにしなければいけない。

 一回目の滞在を終え、新幹線に乗って帰京した。

著者:五十嵐 大(いがらし・だい)
1983年、宮城県生まれ。ライター、エッセイスト。2020年10月、『しくじり家族』でデビュー。他の著書に『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』がある。
Twitter:@igarashidai0729

連載「聴こえない母に訊きにいく」について
CODA(コーダ)――両親のひとり以上が聴覚障害のある、聴こえる人。そんな「ぼく」を産んだのは、「聴こえない母」だった。さほど遠くない昔、この国には「障害者は子どもをつくるべきではない」という価値観が存在した。そんな時代に、「母」はひとりの聴覚障害者として、女性として、「ぼく」を産んだ。母の身体に刻まれた差別の記憶。自身が生まれるまでのこと。知らなかった過去を、息子は自ら取材することにした――。本連載では、その過程を不定期で読者の皆様にも共有してゆきます。