いまこそ語りたい、あの一冊|絶版本|柏書房編集部
胃が痛くなる言葉だ。自分のつくっている本が絶版となり、断裁リストに載って回覧されてくるとき。読者や書店からの問い合わせ、あるいは、著者からの「Amazonで在庫が切れているのですが、そろそろ重版ですか?」という期待のにじむ問いかけに対して、「いまはその本、出荷できなくてですね……」「いやあ、まだちょっと、難しいですね……」と言わざるをえないとき。これほど不甲斐ない瞬間はない。
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ところで、【絶版】と【品切れ】の違いをご存じだろうか。「一般読者」(これも出版業界特有の言い回し)からしたら、「どっちも同じでは?」と思われるかもしれない。でも、異なる概念だ。
冒頭に掲げた【絶版】の定義は『出版社の日常用語集〈第4版〉』からの引用。再び同書を参考にしようと思ったが、【品出し】【品ぞろえ】の項はあるのに、【品切れ】の項がない。驚いた。「そんなことある? みんな品切れてないの……?」ってなった。でも、この本は「新入社員のためのテキスト」シリーズの一冊なので、(新人にいきなりつらい現実を突きつけてもな……)という配慮なのかもしれない。
というわけで、代わりと言ってはなんだが、能勢仁さんという方(多田屋、平安堂取締役、アスキー取締役出版営業統括部長を歴任)が書いた『出版業界 悪魔の辞典』を見てみた。
ビアスのオマージュだけあって明け透けだ。当然「品切れ」「品止め」の項もある。
いずれも真理の一面はついているが、さすがに偏っていると思わないでもない……。ちょうどいい塩梅で、より現場に即した定義はないものか。今度は新卒のころに読んだ田中達治さんの『どすこい 出版流通』を読み直してみた。
田中さんは2007年に亡くなられている。平成生まれの私は当然面識ないが、筑摩書房の伝説の営業マンであり、長年にわたり業界のインフラ整備に尽力したお方だ。2008年7月に出版されたこの本は、同社の「営業部通信」に氏が記していた名物コラム(1999〜2007年)をまとめた一冊で、名著である。
ご本人亡きあとに出版されたものなので、註釈はすべて版元ドットコムの有志が執筆したそうだ。非常に細やかで簡潔、地に足のついた解説となっていて、眺めているだけでも勉強になる。たとえば、【絶版】については下記のように説明されている(執筆者の肩書きはいずれも刊行時)。
次に【品切れ】。
せっかくなので関連用語もいくつか。
要するに、【品切れ】には短期的に在庫が切れることと、長期的に在庫が切れることの両面があるのだが、【絶版】には前者のような意味合いはない。それは版元による「出版権」の放棄であるため、基本的には「復刊」の可能性も手放すことになる。
近年、SNSで「バズった」結果、長らく品切れだった本が重版されるような事例がある(岩波文庫『仙境異聞 勝五郎再生記聞』の重版、ちくま学芸文庫『日英語表現辞典』の復刊が記憶に新しい)。だからこそ(と単純には言えないが)、多くの出版社はその可能性をもち続けたいがために「絶版宣言」ではなく、「品切重版未定」というテクニカルな運用をするのだろう。田中さんも、本の中でこのように述べていた。
しかし言うまでもなく、【品切れ】も【絶版】も、読者からすれば「手に入らない」という意味では変わらない。フリーライターで業界に関する著書の多い永江朗さんも、現状をこのように評している(『週刊エコノミスト』2015年8月11・18日号)。
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もちろん、「電子化すれば絶版はなくなるんじゃないか?」という考え方もあるだろう。オンデマンドを使えば小ロットでの復刊も可能だ。また、ウェブではさまざまな「情報」にアクセスできるため、「古書」でなら手に入るかもしれない。図書館に足を運ぶことだって有効な手段だ。
「絶版」「品切れ重版未定」などと言われると、一冊の本の命はすでに失われてしまったかのように思われるかもしれないけれど、アクセスするための道は残されているのである。
ただ、「電子化」すれば絶対に安心だとも言えない。読者はデータそのものを買っているわけではないので、ストアが潰れてしまえばアクセス権は失われる。また5年後、10年後にそのデータを読めている保証もない。オンデマンドにはコストや契約の問題があるし、古書もAmazonのマーケットプレイスのように、いたずらに価格が釣り上がる可能性もある。盤石なのは図書館だが、コロナ禍により一時的に閉まってしまったこと、その後も抽選制となり限られた人しか足を運べなくなっていることなどを考えると、やはり100%安心とは言えない。
出版業界の外にいる人から、「本になればずっと残るから、本っていいですよね」と言われることがたまにある。でも、別にそんなことはない。失われるときは失われる。本には常に「絶版」の可能性がつきまとうのである。
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さて、ここまで長々と「絶版」について書いてきたけど、この連載は別にこうした出版業界の構造的な問題(?)に真正面から切り込むものではない(すみません……)。
こういう問題があることは認めつつも、やはりそれ以前に、一冊の本には著者や編集者、それに関わる人たちの並々ならぬ思いが詰め込まれているわけで(もちろんそうでない本もあるかもしれない)、その本が「絶版」あるいは「品切れ重版未定(事実上の絶版)」となってしまうことは、単純に寂しいし、悔しいのだ。
大学の先生や研究者、著述家や読書家の方々ならわかってもらえると思うが、「あの名著が、あの貴重な資料が、絶版なの!?」と思う瞬間が日常的によくあるのではないか。私自身、大学時代に先生から勧められた本が絶版で手に入らず、(ないものを資料に指定すんなよ……)とぼやいた記憶がある。でもきっと、その先生もあとで「この本ないの!?」とガックリしたことだろう(想像です)。
では、果たして本の価値は、「絶版」になったと同時に失われるのだろうか。「品切れ重版未定」となった本は商業的には失敗したのかもしれない。ひとつの役目を終えたのかもしれない。かといって、この世に生まれないほうがよかったかといえば、そんなことはないだろうし、ないと思いたい。
出版業界にはこんな言葉がある。誰がはじめに言ったのかは知らないが、荻窪でTitleという書店を営む辻山良雄さんの著書から引用してみよう(『365日のほん』)。
いま、本のサイクル(返品サイクル)は早まり、寿命が短くなった、などと言われる。年間7万点強もの新刊が出ているのだから(しかも書店の数は減っているのだから)、それはそうなのだろう。しかし、本にとっての「終わり」とは、「始まり」とは、そもそもなんなのか。「絶版」について考えることは、「新刊」とは何か、という問いにつながるかもしれない。
この連載は、さまざまな人たちに(おそらく研究者が中心になる)「いまこそ語りたい絶版本」について思うままに紹介してもらう場にしたいと思っている。多くの出版社からすれば、「絶版本」(≒「品切重版未定本」)を掘り起こして紹介されることなど、迷惑な行為でしかないと思うのでお叱りを受けそうだが、聞いてみたいのだから仕方がない。それに、もしかしたら、この連載をきっかけに埋もれていた本が息を吹き返すかもしれない。読者との新しい出会いが生まれるかもしれない。その可能性を多少なりとも信じたい。
人によっては、「自分の人生に影響を与えた一冊」であったり、「もう一度読みたい/読ませたい」「もう一度所有したい」という視点から選書するかもしれない。新訳ではなくあの頃の翻訳で読みたいとか、文庫版じゃなく単行本だったときの装丁をもう一度味わいたいとか、そういう切り口もありえるだろう。ほかには、発禁になったものとか……?
いずにせよ、新刊だけが本ではない。そのことを念頭に起きつつ、忘れられつつある本たちのために、ウェブ連載『絶版本』を始めたいと思います。
(文:柏書房編集部 天野)